半田鶏助と相生の文学
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写真1(相生墓園の地図)
が現在位置です。@は庭園広場、Aは駐車場、Dは児童公園です

  
 
 『相生の文学』に次のような記述がありました。
 「県立相生高等学校前の大路を登りつめると、相生墓園がある。
 この墓域の一隅(墓園の休憩所の東に円い「南無阿弥陀仏」の碑があるが、そのすぐ前の一画)に鶏肋半田伍郎の墓碑がある。
 南正面に「釈諦見」と「釈尼知英」の二人の法名を並べ、・・そして北面には「日給き書斎うれしや福寿草 鶏肋」と刻まれている。諦見は鶏肋の、知英は一人娘美知代の法名である」。

 私たち夫婦は、毎日1時間かけて、相生墓園(墓地公園)の頂上まで散歩します。その一画に半田鶏助の墓碑があると知り、早速、デジカメを持って、出かけました。
 しかし、「墓園の休憩所の東に円い”南無阿弥陀仏”の碑がある」を目印にして、@の庭園広場の東の墓地をくまなく探しましたが、ありませんでした。
 そこで、Dの児童公園の東の墓地を探すと、ありました、ありました。Dの児童公園を「休憩所」と表現していたので、迷ったのです。
 多分、この文章を書いた人は、D児童公園の近くで駐車し、撮影後、休憩したので「休憩所」と表現したのでしょう。
 第三者に理解できるように表現することの難しさを実感しました。「以て銘すべき」!!。

  
 
写真2(「円い"南無阿弥陀仏”」の碑) 写真3(「鶏肋半田の墓碑」と中央後方の碑)

  
 
写真4(「日給き書斎うれしや福寿草 鶏肋」) 写真5(中央後方の碑の拡大)
米田先生の碑(この家に佐多稲子と父が下宿)

  
 
 『相生と文学碑』には次の記述があります。
 「半田鶏肋は、姫路師範学校を卒業の後、那波小学校に奉職したが、やがて結核のため昭和三年早世した、三十二歳」。

 岡田源吾氏は次のように書いています。 「岩木躑躅先生は故半田鶏肋先生の俳句の師であり、正岡子規の直弟子、高濱虚子とは俳句暦では関西唯一人の兄弟分であった。
 故人日々遠く鶏頭赤きかな つつじ
 故鶏肋先生の一周忌頃、躑躅先生が神戸より山陽線那波駅(現相生駅)まで御足労あり、私達有志が出迎えた。半田家まで徒歩で往く途次、畑の真っ赤な鶏頭が印象深く、先生の眼にとまったのであろう。故人追憶の情深い感銘の一句であった」。

 田中脩治氏も次のように紹介しています。
 「きのう、日直当番で学校を巡視していて、裏の溝川で蛙をみつけた。立ち止まって見ていたが動かないので、そこへ座り込んでしまった。
 "そのうちに動く" "動くまで待とう"
 流れの褐色の石に紛れてしまいそうな色の蛙を見つめている中に、日永の山に近い校庭は、もう薄暗くなって来たが、それでも一匹の蛙から目を離さなかった。
 "その時、跳んだんじゃ、蛙が跳んだんじゃ"
 蹲る眼に跳ぶ色や赤蛙
 塗板にゆっくりと、この一句を書きながら"視ることじゃ、根気じゃ"と呟きながら、一句の生れる過程を、自分に納得させるような調子で、目をしぼたいておられた。
 小学生の私達には、一句の本意や味は理解できなくても、先生の感動は直に伝わって来るのであった。あれから六十年余り経った今も、生き残っている灯のような記憶である」。

  
 
 私たちの日常を注意深く見つめると、感動的な場面に出くわすことがあります。
 まさに、半田鶏助との出会いがそうでした。半田鶏助を通じて岩木躑躅、岩木躑躅を通じて正岡子規とも遡ることができました。
 また、半田鶏助を通じて、お会いしたことがある岡田源吾氏や田中脩治氏とも繋がりました。

 半田鶏助と同じ墓地に佐多稲子とその父が下宿していた米田先生の碑もありました。

  
 
佐多稲子『牡丹のある家』にリンク
『牡丹のある家』に出てくるボタンの花にリンク

  
 
写真の提供1:写真5は米田氏
写真の提供2:写真5以外は作者。写真1(2010年10月15日)、写真2・3・4(2010年7月21日)
参考資料1:『相生の文学』(相生市教育委員会)
参考資料2:『相生と文学碑』(相生市教育委員会)
参考資料3:佐多稲子『牡丹のある家』(講談社会)

  
 
 この作品は、ソフトを使わずに、ソース画面(タグ言語)のみで作成した最初の作品です。
 シンプルですが、お気に入りの作品に仕上がりました。
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