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日生村と相生村の漁業権の争論
 「鮄魚(ぼら)養成方法及成績」という明治36年(1903)刊の文書によると、文久元年(1861)、備前国日生村の漁夫と争論におよんだ。ところが、日生村は大藩の威光をかって「専横いたらざるなし」ということで小藩の赤穂藩はこれを調停することができなかった。
  この争論は3ケ年にわたり、隣村の仲裁で和解することになるのだがこの事件中、庄屋や村の幹部が争論往復の途中に船が難破し死亡、村内の空気が険悪になったこともあったらしい。
 この後、明治22年(1889)にも再発したが、この時は和解し漁獲高の分配割合で落着している。

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