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日本最後の仇討
相生の天満神宮内にある稲岡宗太郎の玉垣
 その他に、「日本最後の仇討」に相生村の住人が活躍したという事実がある。この事件の原因は赤穂藩内の殺傷事件の復讐である。
 仇討はすでに厳禁されている明治4年(1871)2月に、復讐を終えたが、この仇討ちに一役をかっていたのが上の写真にある稲岡宗太郎とその次男浅五郎で、目出度く本懐をとげさすために努力したと「明治秘史高野の復讐」に書かれている。

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