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農業
相生村・若狭野村の検地帳一部

耕運機と取組む農民

養鶏場の様子

若狭野耕地整理

 相生市における農業地帯は、矢野川流域、2号国道沿いの沖積平地がその母体であり、特に矢野・若狭野地区は、古来よりの墾田地帯であったことは、柴田実氏著「荘園村落の構造」でよくわかる。
 この地は相当古くから開拓が進められ、大化時代の「条里の遺制」がみられ、有年考古館長、松岡秀夫先生の昭和31年発行の「兵庫史学」に具体的考証を述べられていることで明らかである。
 特に平安時代の典型的な、開発領主、秦為達の延久3年(1071)の大烝秦為達愁状案では、先祖相伝の私領である、「久冨保」と預作さしていること、又同解状案では、承保2年(1075)付で農民5千余人を動員して、50町歩の開拓をなしとげている。これが荘園の経済に寄与したことは、「東寺百合文書」並びに「教王護国寺文書」で知ることができる。
 宝歴7年(1757)藤江忠廉氏の「赤穂郡誌」によると、矢野の庄(現相生市)は、凡そ37力村(相生、那波、佐方、陸などにわけて)で検地している。
 また、旧赤穂郡(赤穂市、赤穂郡、相生市)における各藩の石高は、次のページのようになっている。
 この時代、反当収獲高は2石内外であったようであるが、時代の進展につれて、農業経営も多角化し、機械化へと変わるにつれて、土地改良、耕地整理の必要に迫られた。
 若狭野では、戦時中、学徒動員を求めて、耕地整理を実施し、昭和27年には、佐方地区に土地改良区を設立して湿田の改良事業を施している。
 これによって牛馬は次第にその姿を消し、農薬の撒布もヘリコプターに代わり、反収も増加をたどってきた。

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