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商業
 いな座(那波氏蔵)

米価・物価(松田琢也氏蔵)

旭商店街の昔

旭商店街の今

 商業の歩みについては、矢野庄の下級官吏と、農民とによって「市」を那波で実施したことにはじまっている。(1361年=康安元年12月の「東寺百合文書」)。
 この「市」は、少し以前から始まっているようである。商工業の座とはちがっているが、中世(鎌倉・室町時代)の座の組織をなしていたといわれる「鮄座」があり、このことについては、天保六年の庄屋の記録(京大保管)に出ている。
 この座は江戸時代には藩主の支配と保護をうけていたが、明治になって相生村の保護で近年まで続けていたが、いまその面影はない。
 この座の収入が藩主の年貢とされ、相生村にも分割された事実に立脚して強い村落自治体の存在が知られて商工業の座と異なる性格を示していたのである。
 主食については天明7年の「相生家潰騒動」の文書の中に、米商人六人の名が出ており、これが明治18年の相生搗米商組合を構成するようになった。
 元禄14年に、代官石原新左衛門に出した文書では、相生村の商人57人で、7人は薪炭を山口県下に販路とした船商人、50人は、魚商人として西播地区一円を営業区域としていたことがわかる。
 またこの記録の中に造り酒屋が一軒あることがわかる。
 明治7年の相生の甲戌戸籍からみると、その職業は、65%が漁業で、商人が185人で大部分は魚商であった。
 商業の盛んな村は、那波村で、明治29年の郵便電信局設置請願書の一部で明らかである。即ち「商家の如きは総戸数の8分を占め」とかかれている。
 魚商の供給源で、魚市場問屋業は相生村の海老名家が相伝の権利をもち、明治初年に若干の混乱はあったが、明治40年、播磨造船所の誕生を契機として、近代的産業へと脱皮しながら現在に至っている。
 商業の中核団体、相生町商工組合は昭和七年発足し、天神山・大島山の遊園地造成、遠見浜海水浴場の新設、それに相生節、相生民謡の発表と積極的な観光活動を実施していたが、時局の進展につれて各種の統制組合に分かれ、終戦後の昭和21年相生商工会議所や、昭和24年の商店連合会となっている。
 昭和11年の播磨造船所共済組合の物価調整と節約とをかねた、木炭・塩鮭等産地直接購入の廉売は、消費者と生産者の直結として新しい方向を示していた。
 この当時から商業部門の戦時態勢が整備され、昭和13年の商工保安協会が生まれ、昭和16年には「主食配給制」とともに、米穀商は「相生共精共販組合」を組織し、企業合同を行ない食糧営団から公団、そして現在の態勢となっている。
 このようにして、重要物資は主として隣組を通じて配給され、企業活動はその自由を失ない敗戦をむかえたのである。
 この間特筆すべきことは、大正4年の養蚕業で産まゆ率が赤穂郡一であることと、昭和4年頃の31事業場と66人の従事者による矢野村の竹細工である。

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