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金 融
米穀国家管理(昭一六)

頼母子講通(嘉永四年)

海老名氏に許された鮄座の記録表紙

海老名氏に許された鮄座の記録内容

 金融面では、各人が定期的に掛金を拠出し、一定の期日にその貯った資金を、くじ引きや入札で融通する「頼母子」が、貧因者救済資金、神社、仏閣の維持修繕の経費に最初の掛金を充当するため、大いに流行し百十一を数えたということである。
 一方相生銀行が明治二十九年(のちに合併解消)、翌年に那波銀行(昭和初期に倒産)と二行が出来たことである。
 農民の金融機関として、共存共栄相互扶助の産業組合(現在の農業協同組合)は、各町村に生まれたが、なかでも、大正十三年に創立した相生町信用販売購買組合の歩んだ道をとりあげると、 百六十四人の組合員でスタート、冠婚葬祭用具の利用・組合住宅の建設・五十町歩目標の遠見山梅林の造成・上水道事業や、松の浦埋立事業の町債負担を行ない、相生湾頭にその雄姿をみせていたが、合併解消して今はその姿はない。
 現在、かっての那波湿田地帯の区画整理と、山陽新幹線の開通による相生駅北の開発など、相生市商業の前途には大きな期待がもたれている。

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