| 1701年3月16日〜17日 |
| 元禄14年(1701) 3月16日 |
| 赤穂城の明渡しが「4月中旬過ぎ」と決まる。 若年寄は大検使庄田下総守と副使多門伝八郎・大久保権左衛門を呼び出す。若年寄の尋問に庄田は「恐れ入る」と答え、多門・大久保は「我々は座敷でするよう申し入れしたが、副使の意見は取り上げてもらえなかった」と答える。 浅野長矩の妻阿久里が備後国三次城主・浅野土佐守長澄下屋敷(赤坂今井町)に引き取られる。 浅野家江戸詰家来、鉄砲洲上屋敷より撤退する。 |
|
|
| 3月17日 |
| 勅使・院使が江戸を発ち、帰洛する。 卯の刻(午前6時頃)、幕府は、浅野家の鉄砲洲上屋敷を公収し、普請奉行の奥田八郎右衛門に引き渡す。そして家財道具は屋敷内の倉庫に保管し、長矩の従兄である美濃国大垣城主・戸田o女正氏定の家来に管理させる。 安井彦右衛門・藤井又左衛門の両家老らはその場を引き払う。 受城目付が日下部三十郎から御書院番榊原采女政殊にかわる。理由は、日下部が浅野の縁者との申し出があったことによる。 江戸住まいの赤穂藩家臣は江戸を発って赤穂へ帰り始める。 幕府は戸田采女正氏定(大垣藩主。内匠頭の母の実家)に命じ赤穂藩家臣に穏便な赤穂城開城の諭告をすることを命じる。采女正氏定は城受取が「4月中旬過ぎ」ということを知る。 老中土屋敷相模守政直は戸田采女正氏定に対して「赤穂藩の武具・家財は城付け武具以外は構いなし(自由に処分してよろしい)」の回答をする。 |