なぜ無差別に人を殺す 希薄な人間同士の接触
ノンフィクション作家 柳田邦男
 「人を殺したかった」「誰でもよかった」─最近殺傷事件を起こした若者や少年が言う言葉だ。
 なぜ、かくも安易に無差別に人を殺すのか。
 この十年ほどの間に起きた若者や少年による凶悪事件を分析すると、次のような共通項がある。
 @自己中心的で、他者に対し「かわいそう」と思いやる感情が育っていないA不満や怒りを抑制する自制心が育っていないBゲーム感覚で殺人を実行するC社会から注目される(あっと驚かす)形態を選ぶD思うようにならないのはすべて他者(社会)のせいにしているEインターネットによるコミュニケーションがさまざまな形でからんでいることが多い。
 これらの問題の根底にあるのは、一つは、幼少期からの人格形成のゆがみであり、もう一つは、ゲームやネットなどの情報環境の問題だ。
 この二点について私が真剣に考えるようになったのは、一九九〇年代の終わりごろ、親しい小児科医から「最近日本の子どもたちの表情が輝きを失っている。テレビもない途上国の子どもたちは顔が輝きに満ちているのに。子どもにもっと生身の人間同士の接触をさせなければ」と言われたのがきっかけだった。
 予言的な警鐘
 子どもの顔には時代の変化が投影されている。ちなみに東京・秋葉原の無差別殺傷事件を起こした加藤智大容疑者は二十五歳。その成育の時代は八〇年代前半に生まれ、八〇年代後半に幼年期、九〇年代に少年期だ。
 親の教育熱心が「いい学校・いい会社」という価値観によって過剰・過干渉にななる一方で、家庭崩壊で子どもを放任する家が増え始めた時代だ。同時にゲームやビデオの急速な普及で、子どもたちがバーチャル(倣想現実)な世界に入りこみ、生身の人間同士の接触が希薄になり、命の感覚や他者の心を理解する感性が育ちにくくなり始めた。
 九七年の神戸連続児童殺傷事件の少年Aや二〇〇○年に各地で相次いだ凶悪事件の十七歳少年たち、そして加藤容疑者は、まさにこの世代だ。
 次の九〇年代前半から半ばに生まれた世代はどうか。九〇年代後半の保育園児たちの傾向に関する調査報告は@夜ふかしなど親のしっけの欠落Aすぐ暴力をふるうBすぐパニックになるC自己中心的で自己抑制力が育っていない、などが顕著になっていることを明らかにしていた。これは予言的な警鐘だった。
 二〇〇四年に長崎県佐世保市の小学校六年の同級生を殺害した女児は、まさにこの世代だった。成育歴のゆがみが深いがゆえに、早い時期にゆがみが表面化レたといえるだろう。
 抱きしめる関係
 八〇年代生まれにしても、九〇年代生まれにしても、二〇〇〇年代になると、人格形成が未熟なまま、ケータイ・ネットやゲーム・ビデオという機械を介しての情報との接触やコミュニケーションが生活時間の大半を占めるようになった。その結果、人格形成は自己中心的な傾向を強め、命の感覚、他者の悲しみを思いやる感性はますます育ちにくくなってきた。
 しかもネット上の個人による情報発信{ブログ」の世界一の普及、匿名発信による掲示板や学校裏サイトへの書き込みの広がりは、集団ネットいじめや集中個人攻撃で快感を楽しむ「祭り」などのトラブルを数え切れないほど起こしている。ネットを誰かに理解される最後の居場所と思い込んでいた若者が逆に中傷・攻撃されて感情を爆発させ、劇場型犯罪に走る。この実態はネット社会が負の側面で新しい危機的な段階に入ったことを示している。
 今、すべきことは、子育ての原点から立て直すことだ。授乳中にケータイに熱中しているのはネグレクト(育児放棄)に等しいことに親が気づかない時代だ。もちろんしっかりと子育てをしている親もいる。子育てまで二極化している。
 一部の小中学校で、ノーテレビ・デーやノー携帯ネット・デーを行って、家族や友達との生身の接触の大切さを気づかせることに成果をあげている。乳幼児を持つ親に助言している小児科医もいる。親が乳幼児期にたっぷりと「抱きしめる」関係を持てるようにする社会的な取り組みを急がねばならない。