| 大江・岩波沖縄戦裁判(1) |
| 要旨では満足できず、ネット上で、全文がないか探しました。ありました。大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会のホームページでした。 しかし、PDFなので、テキスト化出来ません。時間をかけて、重要な部分をテキスト化しました。 判決文にも出てくる産経新聞の記事も紹介します。 生徒・学生の皆さんへ 判決全文を読んで、一人称(私)で語れる考えを育成して欲しいと思います。 |
| 資料1(大江・岩波沖縄戦高裁判決文) |
| 戦没者のうち、約5万5200人余りが戦闘参加者として処遇された。このうち、区分N「集団自決」の概況は、「狭小なる沖縄局辺の離島において、米軍が上陸直前又は上陸直後に警備隊長は日頃の計画に基いて島民を一箇薔所に集会を命じ「住民は男、女老若を問はず軍と共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以って対抗出来る処までは対抗し愈々と言う時にはいさざよく死花を咲かせJと自決命令を下したために住民はその命をそのまま信じ集団自決をなしたるものである。尚沖縄本島内においては個々に米軍に抵抗した後、手榴弾で自決したものもある。集団自決の地域、座間味島、渡嘉敷島、伊江島」とされている(乙32、39の5)。 集団自決が戦闘参加者に該当するかの判断に当たっては、隊長の命令によるものか否かは、重要な考慮要素とされたものの、要件ではなく、隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定されたものもあった。 (エ)加えて、座間味村の援助法の申請は15次にわたり、申請から認定まで最短で3週間、平均3か月で補償対象との判断が下された。渡嘉敷村役場で援護担当であった小嶺幸信は、平成19年1月15日朝刊に掲載された沖縄タイムスの取材に対し、「『集団自決』の犠牲者を申請するとき、特に認定が難しかったという記憶はない。Jと語った。元琉球政府の社会局援護課の職員であった金城見好も、同じ取材に答えて、「二、三カ月後の認定は早い。平均的にほ三カ月から六カ月かかっていた」「慶良間諸島は、沖縄戦の最初の上陸地という特別な地域だった。当初から戦闘状況が分かっており、住民を『準軍属』として処遇することがはっきりしていたj と説明した。この点は先に挙げた厚生省の現地実態調査と、それに基づいて作成された詳細でかつ網羅的な戦闘参加者の区分にも合致している。 ウ 前記認定事実によれば、昭和27年4月30日に公布された援護法が米軍の占領下にあった沖縄に適用されることとなったのは昭和28年3月26日であること、その後、琉球政府社会局に援護課が役置され、沖縄戦の実態調査が行われたこと、集団自決が戦闘参加者に該当することが決定されたのは昭和32年であること、隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定された自決の例もあったことが認められ、また、前記(2)ア(ア)で認定した事実並びに証拠(乙2、35の1及び2)によれば、援護法が公布された昭和27年4月30日より以前の昭和25年に発行された「鉄の暴風Jに、控訴人梅澤及び赤松大尉が住民に自決命令を出した旨の記述があり、その内容も具体的に記載されていること、昭和20年に作成された米軍の「慶良間列島作戦報告書Jには、「尋問された民間人たちは、三月二十一日に、日本兵が、慶良間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときは自決せよと命じたとくりかえし語っている」との記述があり、座間味村の状況について、「明らかに、民間人たちは捕らわれないために自決するように指導(勧告)されていたJとの記述があること(この林教授の訳について控訴人らが 疑義を呈しているけれども、後記第4・5(4)エのとおり、控訴人らの主張するとおりに「慶良間列島作戦報告書Jの該当部分を訳したとしても、軍が住民に自決を勧めていた事実は十分に認められる。)が認められる。 これらの事実に照らすと、梅澤命令説及び赤松命令説Iも沖縄において援護法の適用が意識される以前から具体的な内容をともなって存在していたことが認められるから、援護法適用のたに捏造されたものであるとする主張は採用できない。また、前記のとおり、隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定された自決の例もあったことが認められるなど、日本軍がその作戦に様々な形で住民を協力させ、軍と行動を共にさせるなどして集団自決などの悲惨な結果を招いていることは沖縄戦全体の特徴として厚生省の現地調査の結果でも知られており、上記のとおり戦闘に協力した住民を広く準軍属として処遇することになっていたのであるから、梅澤命令説及び赤松命令説を後日になってあえて捏造する必要があったとはにわかに考え難い。 エ(ア)これに対し、前記のとおり、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課に勤務していたとする照屋昇雄は、渡嘉敷島での聞き取り調査について、「l週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いたjものの、「軍命令とする住民は一人もいなかった」と語ったとし、赤松大尉に「命令を出したことにしてほしいJと依頼して同意を得た上で、遺族たちに援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作り、その書類を当時の厚生省に提出したとの趣旨を語ったとされる(甲B35及び38)。証拠(甲B63ないし65、乙56の1及び2、57の1及び2、58並びに59)によれば、照屋昇雄(本件訴訟では、昭和28年3月着任と主張されていた)は、昭和29年10月19日琉球政府の社会局援護課の援護事務の嘱託職員となり、昭和30年5月1日には旧軍人軍属資格審査賽員会臨時委員となり、同年12月に選考により三級民生管理職として琉球政府に採用され、沖縄中部社会福祉事務所の社会福祉主事として勤務したこと、昭和31年10月1日に沖縄南部福祉事務所に配置換えとなり、昭和33年2月15日に社会局福祉族に配置換えとなり、同年10月には社会局援護裸に在籍していたことが修められる。 (イ)本件訴訟継続中の平成18年3月27日付けの産経新聞朝刊の3面にわたる記事(甲B35)及び「日本文化チャンネル桜」社長水島総ほか2名の取材斑による現地詳細報告「妄説に断!渡嘉敷島集団自決に軍命令はなかった」(正論平成18年11月号所収 甲838)によると、同年5月から9月にかけて語られたという照屋昇雄の話の要点は次のようなものである、 @ 照良昇雄は、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷島で100名から200名の聞き取り額査をした。 A その100名以上の人のなかに集団自決が軍の命令だという住民は、女も男も全部集めて韻査したが、1人もいなかった。 B集団自決に援護法の適用が出来ないか東京の審査委員会で(南方同胞)援護会などが掛け合ったがだめだった。規定の中に隊長の命令によって死んだ場合はお金をあげましょうという条文があるが、誰かわからないが当時の隊長さんたちに自決命令を出したと言ってくれとお願いしたが応じてもらえなかった。そして、(1955年だったかなあ)、12月頃、最後の東京の会議があり、自分は参加していないが渡嘉敷島の玉井喜八村長さんが参加したらしい、その時に厚生省の課長さんから、赤松さんが村を助けるために十字架を背負いますと言っていると聞いて、村長が早速赤松隊長の自宅に会いに行って、隊長命令を書くと言うことになっているそうですがと話したら、お前らが書ければサインして判子押しましょうということになった、25日に村長が帰ってきたので、翌月の15日か16日に間に合わせるように隊長命令を書くと言うことで、2人(甲835では3人)で夜通しで作った。 C 作ったのは命令ではなく、渡嘉敷住民に告ぐと書いてあった、赤松隊長の身になって書いた、何年何月何日、渡嘉志久から米軍が上陸して、もはや村の役所の前に来ている、国のため降伏せず、1人でもアメリカ人をやっつけてというような内容だったはず、住民も死して国のためにご奉公せよとかたくさん書いて、自決せよとかそんな命令じゃあない、教育じみているのが命令書となっている。15日の閣議に出さなければ間に合わないということで、村長さんが赤松隊長のサインと判子をもらって間に会わすように持っていった。 D 村人は、赤松さんがそうやってくれたから援護会が出たことを聞いてわかっているからどんな人が来ても絶対に言わない。 E 今回証言するには深いわけがある。赤松隊長はガンで余命3ケ月のとき、玉井村長に何回も電話をしてきて、私は命が3ケ月しかありませんから、村史から私が自決命令をしたことを削除して訂正文をはさんで欲しいと頼んで来た。玉井村長は悩んで眠れなくなり、自分も相談され親身に慰めたが、赤松大尉が死亡してしまい、村長も心労のため病気して、まもなく死亡した。十字架を背負ってくれた人や玉井村長に安らかに眠ってもらうためにも自分も、生きているうちに真実を言おうと決心したものである。 (ウ) 照屋昇雄の話は以上のような内容である。しかし、赤松大尉に軍命令を出したことにすることを依頼し(最初に誰が依頼をしたかははっきりしないが)、了解を得て、偽の軍命令の文書を作成してそれにサインと押印を得て、厚生省に提出したなどと云うことは、赤松大尉の生前の行動と明らかに矛盾する。赤松大尉の潮掲載の手配(甲82)は前掲(原判決第4の5(2)イ(イ)a)のようなもので、当時、自分は住民の処置は頭になかったので、部落の係員に聞かれて、部隊は西山のほうに移動するから住民も集結するなら部隊の近くの谷がいいだろうと示唆した、これが軍命令を出し、自決命令を下したと曲解される原因だったかもしれない、というものである。すなわち、赤松大尉自身は軍命令を出した覚えがないので、マスコミ等で極悪無惨な鬼隊長などと非難され、その原因を自らに問い、考えた結果、西山へ住民を部隊と共に移動させたのが曲解される原因だったのかもしれないと考えるというのである。同大尉が、軍命令の捏造を村長に依頼されそれを了解して偽の命令書(?)にサインしたのだとすれば、赤松命令説の根拠についてこのように考察してみせ手記に記述したのは、そのよ うな経緯をカモフラージュするためだということにならざるを得ないが、控訴人赤松本人尋問の結果や後掲の甲B80号証によってうかがわれる赤松大尉の人柄からすれば、同大尉がそのような器用なまねをするとは考えられないし、「血の叫び」だとする同手記の真摯さにもそぐわない。また、同手記には、大学生の娘から軍人なら住民を守るのが義務ではないかと質問されたことが記載されており、その娘である佐藤加代子の陳述書(甲B80)では、大学1年生の時に「鉄の暴風」の父親に関する実名の記事を読み、息が止まるほどのショックを受けたこと、父にも怖くて聞けずに文献を調べるなど1年ほど1人で悶々と悩んだこと、父は質問されたと書いているが、むしろ事実や父の弁明を聞くというよりは一方的に詰問口調で父をなじったような感じであること、その後ようやく父そして父の抱えた問題と心の中で折り合いをつけていき、父への尊敬や愛情を失うことなく関係を継続することができたこと、ただ、今になってみると、もつと父に集団自決のことを含む戦争体験についてきちんと詳しく聞いておけばよかったと後悔もしていること、父は希代の悪人とされながらも耐えていたのだと思うが、本当は 事実はこうだったともっともっと世間に対して弁明したかったのだと思うし、家族にはなおいっそうのこと真実を知ってもらいたいという思いもあったと思うということや、曽野綾子のきちんとした取材で父が知る限りのことを話せたこと、マスコミへの厳しい批判などが、12頁にわたり心情のままに自然に語られている。これによってうかがうことのできる赤松大尉の家族の間のつながりなどに照らし、仮に照屋昇雄の述べるようなことがあったとすれば(自分が依頼に応じて偽の命令書にサインしたことによって家族に大きな負担を掛けたことになるのであるから)、そのことは家族に話されていないはずはないし、上記の手記や陳述書に記載されたような形での赤松大尉を含めた家族の中での大きな苦悩はあり得ないことである。佐藤加代子の陳述書の日付は平成19年10月6日であり、上記平成18年8月の産経新網の記事(甲B35)や同年11月号「正論」掲載の「日本文化チャンネル桜」取材班の報告(甲B38)は佐藤加代子や控訴人赤松の知るところであろうが、それに沿った事実は、上記陳述書や控訴人赤松の陳述書(平成19年9月29日付、甲879)や本人尋問にも全く出てこない。照屋昇雄の話は、身近にい た者たちとしてみれば、あまりにも荒唐無稽なあり得ない話として、明らかに黙殺されているものと理解される。また、昭和55年に死亡した赤松大尉が、余命が3ケ月しかないと告げて村長に村史から自決命令の削除を求めて何度も電話をしたのであれば、そのことを、家族が知らないなどということもあり得ない。その当時は、概に、赤松大尉もその家族らも赤松命令説の誤りは明らかになったと考えていた時期であるし、そもそも、赤松大尉が村史の記載を知っていて、死の直前に何度も電話を掛けてそれの削除を依頼するほど気にしていたなどということの裏付けもないくちなみに多年の宿願であったと発刊の辞が付された渡嘉敷村史資料編甲B39は昭和62年3月31日発行である。)。 (エ) 赤松大尉は、昭和46年の前記手記でも、照屋昇雄の述べるようなことに一切触れていないことは前記のとおりである、照屋昇雄の話が本当なら、曽野綾子は、「ある神話の背景」のための赤松大尉への取材を昭和45年に極めて丁寧に行っておりながら、赤松大尉が秘密を守ったがために、神話の背景の最も根本的なところを誤ってしまったということになるが、いかにも不自然である。ちなみに、曾野綾子は、軍命令説と年金を得ることとの関係にもほかの箇所では触れているのであるから、問題自体を認識していなかった訳ではなく、赤松大尉からは、その様な話を聞かされてはいないのである。 (オ) 戦後間もない頃から渡嘉敷島に赤松隊長命令説があったこと自体は、控訴人らも特に争わず、その原因を自ら検討しているところであるし、「鉄の暴風」にも伝聞であるにせよその具体的内容が記録され、馬淵新治の調査(乙36)でも確認されている。それなのに、軍命令とする住民は1人もいなかったという点や、逆に、照屋昇雄と村長(ともう1人の担当者)及び赤松大尉しか知らないはずの軍命捏造のことを住民みんなが聞いて知っており思っているという点なども、不自然である。 (カ) 証拠(乙60及び61)によれば、本訴の被控訴人ら代理人である近藤卓史弁護士は、平成18年12月27日付け行政文書例示請求書により、厚生労働大臣に対し、前記産経新に掲載きれた「沖縄県渡嘉敷村の集団自決について、戦傷病者戦没者遺族等抜饅法を適用するために、照屋昇雄氏らが作成して厚生省に提出したとする故赤松嘉次元大尉が自決を命じたとする書類」の開示を求めたが、厚生労働大臣Iも平成19年1月24日付け行政文書不開示決定通知書で「陶示請求に係る文書はこれを保有していないため不開示とした。Jとの理由で、当該文書の不開示の通知をしたことが認められる。・・…・なお、控訴人らは、当審で、書類の保存期間満了による廃棄等の可能性や、沖縄本土復帰の時に沖縄側に引き渡されたなどと主張し、正論20年6月号の論考(甲BlO7)を提出するが、所管庁への調査嘱託や引渡しの法令上の根拠、事務取扱規程等の裏付けも全くない話であり、採用できない。 (キ) その他、照屋昇雄の話は、訴訟の係属中に発表されたものでありながら反対尋問を経ていないこと、内容的にも、その年代や、伝聞なのか実体験なのか、捏造したという軍命令の内容や、戦後10年以上後に捏造したような命令書が厚生省内で通用した経緯など−あいまいな点が多く、他方、赤松大尉の家族や関係者に対する裏付け調査や信用性に属する裏付け吟味もないままに新聞・雑誌・テレビ等向けの話題性だけが先行して(この点は後に見る宮平秀幸新証言とも共通する。)その後の裏付け調査がされた形跡もないことなど、問題が極めて多いものといわざるを得ない。 (ク) 以上の次第で、援護法適用のために赤松命令説を作り上げたという照屋昇雄の話は全く儲用できず、これに追随し、喧伝するにすぎない前掲の産経新聞の記事(甲B35)や「日本文化チャンネル桜」取材判の報告(甲B38)も採用できない。 (ケ) 盛秀助役の弟である宮村幸延が作成したとされる昭和62年3月28日付け「証書」と題する親書(甲B8)には、「証言 座間味村遺族会長 宮村幸延 昭和二十年三月二六日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の富里盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむを得えず隊長命として申請した、ためのものであります 右当時援護係 宮村幸延 (印) 梅沢裕殿 昭和六三年三月二八日jとの記載がある。 オ(ア) しかしながら、宮村幸延は、「別紙証言書は 私し(宮村)が書いた文面でわありませんj との書面(乙17)を残しているほか、証拠押B5、33、85、乙18、41、宮城証人及び控訴入梅澤本人)によれば、昭和62年3月26日の座間味村の慰霊祭に出席するために座間味島を訪問した控訴人梅澤は宮村幸延の経営する旅館に宿泊したこと、宮村幸延は、控訴人梅澤から、昭和62年3月26日、「この紙に印鑑を押してくれ。これは公表するものではなく、家内に見せるためだけだ。」と迫られたが、これを拒否したこと、同月27日、控訴人梅澤が同行した戦友という2人の男が宮村幸延に泡盛を飲ませ、宮村幸延は泥酔状態となったこと、その翌朝、朝から飲酒していた宮村幸延を控訴人梅澤が訪れ、宮村幸延に対し、自らが作成した「昭和二十年三月二十六日よりの集団自決は梅沢部隊長の命令ではなく助役宮村盛秀の命命であった。之は遺族救済の補償申請の為止むを得ず役場当局がとった手段です。右証言します 昭和六十二年三月二十八日 元座間味村役場 事務局長 宮村幸延 梅沢裕殿Jと記載された文書(甲B85は、その拡大写真)を示したこと、宮村幸延は、これに基づいて前記昭和62年3月28日 付け「証言」と題する親書(甲B8 以下この項で、これを「証書Jと略称する。)を作成したことが、それぞれ認められる。・・…。 (ウ) 披控訴人らは、「証言」は宮村幸延が飲酒酩酊させられたうえで書かされたもので、同人の意思に基づくものではないと主張する。しかし、「証言」の筆跡は比較的しっかりしており、控訴人梅津に示された書面を機械的に写しただけものではなく、宮村幸延が判断力を失うほどに酩酊していたとは到底認められないから、被控訴人らの主張は採用できない。 他方、控訴人梅澤は、その陳述書(2)(甲B33)で、宮村幸延が前記「証書」…を、その意思で作成したとして、次のように記載する。…、同陳述書(2)(甲B33)では、控訴人梅澤は慰霊祭の終わった23日座間味村役場に田中村長を訪ねたが、補償問題を担当していた幸延氏に開いてくれといわれて、その足で幸延氏を1人で訪れ、訪問の理由をお話しすると、「幸延氏は突然私に謝罪したうえで、それまで一人で抱え続けてきた胸のつかえを一気に取り去るように、集団自決者の遺族や孤児に援護法を適用するために軍命令という事実を作り出さなければならなかった経緯を切々と語って下さいました。『村中の者もそのことは知っています。』とも仰いました。『こんなに島が裕福になったのは、梅澤さんのお陰です。貴方がこの島の隊長であったことを誇りとしています、しかし、無断で勝手にやったこと、本当に済みませんでした。』と頭を垂れて再び謝罪されました。J 「私は幸延氏に、是非とも今仰った内容を一箪書いて頂きたいとお願いしました。幸延氏はどのように書いたら良いでしょうかと尋ねられたので、私は、お任せします、ただ、隊長命令がなかったことだけははっきりするようお願いしますとお答えしたのです。J 「大手の清水建設に勤務され、その後厚生省との折衝等の戦後補償業務にも携わっていた経歴をお持ちの幸延氏は、私の目の前で、一言々々慎重に、『証言』(甲BS)をお書きになりました。」と記載され、その後、語り終わって共に杯を酌み交わし、義兄弟を約したと記載されている。 しかし、そのような作成状況であれば、前記「証書」の案文であったとみられる梅澤が作成した前記文書(甲B85)が存すること自体あり得ないことで、控訴人梅澤の陳述書(甲B33)は、この部分で措信し難いし、控訴人梅澤が沖縄タイムスの新川明に南紀「証言」の作成状況として昭和63年12月22日に語った録音の内容(乙43のl及び2・5頁)とも異なり、措信し難い。すなわち、控訴人梅澤は、新川明に対しては、「今度、忠魂碑を、部下の切り込んだやつの忠魂碑を建てるために今度行った。その時に聞いたら、彼はまあ、酔って、ないとは言いませんが、彼がそういう風に私に『本当に梅沢さん、ありがとうございました。申し訳ございません』とこうやってね、手をこうやってね、謝りながら書いたんですよ。『一箪書いてくれんか』って、『いやー書くのは苦手だけれどもなあ』と。『だってあんたは役場におった人でいろいろ文書も書いたろうと。わかるだろう』と。『ういうふうな書き出しがいいでしょうか』と言うから、『そうか』と、『書き出しはこれぐらいのことから書いたらどうですか』と私ほ2、3行鉛筆で書いてあげました。そしたら彼は『あ、分かった分かった、もういい、あと は私が書く』と言って、全然私が書いたのと違う文章を彼が書いてああいう文書をつくったわけです、まあ、よく聞いてくださいよ。それで結局私は『ありがとう』と、『ついでに判を押してもらえたらなあ』と言ったら、彼は商売しておるから店の事務所の机の上から判を持ってきて押して『これでいいですかjと。『ありがとう』と、『これはしかし梅沢さん、公表せんでほしい』と言った。「表せんと約束してくれと』と。私はそれについては『これは私にとっては大事なもんだと。家族や親戚、知人には見せると。しかし公表ということについては、一遍私も考えてみよう』と。公表しないなんて私は言っておりませんよ。やっぱりこれはですね、沖縄の人に公表したら大変だろうけれども、内地の人に知らせるぐらいは、知らせたいというのが私の気持ちだから。そういうふうなことで別れた。」「あの人はね、まあ言うたらやね、毎日、朝起きてから寝るまで酒を続けています。」と語っており、この「証言」作成後2年足らずの時点で新川明に語った作成状況と控訴人梅澤の陳述書(甲B33)の前記記載内容は全く異なっており、控訴人梅澤の陳述書(2)(甲B33)の記載に疑問を抱かせる(なお、控 訴人梅澤の陳述書(2)(甲B33)には、沖縄タイムスの新川明との対談の経緯等についての記載もあるところ、原審第9回口頭弁論期日こ提出されたこの陳述書(甲B33 平成18年8月26日付)が被控訴人らからの反論を踏まえて検討して書かれたものであるにもかかわらず(同1頁冒頭)、前記新川明との対談の経緯等は、乙第43号証のl及び2の録音内容に照らして措信がたく、この陳述書(甲B33)全体の信用性を滅殺せしめる。)。 また、前記のとおり、証拠(乙43のl及び2)によれば、控訴人梅津が沖縄タイムスの新川明に語った前記「証言」…の作成状況では、宮村幸延がこれを酔余作成したものであるということを認めている(乙43の2・5頁)。 (エ) 控訴人梅澤は、前記のように「証書」に対する被控訴人らの反論を踏まえてもう一度詳しく説明するとして作成した前記陳述書(2)(甲B33)でも、1人で訪れた最初の日(28日)に来意を告げるとすぐ謝られたといい「証言Jを書いてもらうについて案文を提示したことを否定し、昭和63年の沖縄タイムスの新川明との対談でも書き出しを尋ねられて2、3行鉛筆で書いてあげたら、わかった、もういい、後は自分で書くとして全然違った文書を容いたと具体的なやり取りを辞細に述べている。しかし、宮村幸延のところに残されていた文書(甲B85)は、控訴人梅澤の自筆と認められるところ(控訴人梅澤も本人尋問で認めている。)、その内容は、前掲のとおりであり、右証言しますという本文の内容、作成の日付、作成者宮村幸延の肩書きと氏名、梅津裕殿という宛先まで書かれて体裁を整えた書面であり、押印すればいいだけの完成された文書である。宮村幸延は、あらかじめ用意されていたと考えられるこのような文書を示されて押印あるいはこれを手本に自書しての署名押印を求められたものと認められるが、それは先に(イ)で認定したような26日からの経緯こ副ったもので、控訴人梅津は 意識的にそのような作成経緯を隠しているものと解さざるを得ず、同文書作成の経緯に関する控訴人梅澤の上記錬述書(2)(甲B33)やこれに副った本人尋問の結果は到底採用できない。 (オ) それではなぜ宮村幸延は「証言Jの作成に応じたのか、また、作成経緯はともかく「証言」の内容自体は事案に会っているのかが次に問題となる。宮村幸延が判断力を失うほど酩酊していたとは認められないことは前記のとおりであるが、「証言」の文章は、手本とされた控訴人梅澤作成の完全な文書に比べて文脈や体裁がやや乱れており、座間味村遺族会長の立場を初行に打ち出し、助役とある盛秀の肩書きに兵事主任を先にして兼助役とし、「役場当局がとった手段Jというのを「弟である自分が遺族補償のためやむを得ず隊長命として申請したもの」と改め、自分の肩書きの役場事務局長を当時援護係としている。他方、その当時の事情として、宮村幸延ま、概に初枝から、昭和20年3月25日の本部壕で控訴人梅澤は兵事主任であった助役らが自決用の弾薬の提供を求めたのに断ったという話を開いており、控訴人梅津が直接自決命令を出してはいないと理解していたこと、そして援護法適用の際の調査の時に初枝はそのことを述べず控訴人梅澤がマスコミの標的にされたことに深い罪悪感を感じていることを知っていたこと、援護事務においては座間味戦記に書かれた梅澤命令説が前提とされてお り後に初枝の話を聞いてからはそれが事実と異なると知り自分自身も担当者としてやや負い目を感じていたであろうこと、初枝と同様に控訴人梅澤がマスコミの標的となり家庭崩壊等極めて苦しい立場こおかれていると聞いて深く同情していたであろうことなどが推認できる。そうだとすると、宮村幸延は、最初の日は控訴人梅澤の文書への押印依頼を断ってはいたものの、控訴人梅澤やその戦友たちと酒を酌み交わすうちに、控訴人梅澤の立場に一層同情するようになり、家族に見せて納得させるだけだといわれて、初江から聞いていた話を前提として、自分の責任を前に出すようなニュアンスで「証言」を作成して控訴人梅津の求めに応じたことが、十分考えられ、このような推論を左右するような事憎はなく、後述の座間味村への同人の釈明や妻文子の陳述(乙41)、宮城晴美の調査(乙18)とも一致している。そして、その上で、控訴人梅澤も新川明との対談では認めていたように、宮村幸延は、改めて、「これはしかし梅澤さん、公表せんで欲しい」「公表せんと約束してくれ」と明確に求めていたものと認められる。控訴人梅澤は、そのような経緯を十分自覚しているからこそ、本件訴訟においては、 反論を踏まえ更に詳しく説明するとして提出した陳述書(2)や本人尋問においでも、その様な作成経過を意識的に隠そうとしたものと考えざるを得ない。 そうだとすると、「証言」は、控訴人梅澤が家族に見せて納得させるだけのものであることを前提に、アルコールの影響も考えられる状況のもとに、控訴人梅澤の求めに応じて交付されたものにすぎないと考えるのが相当である。宮村幸延が、前記のように、同文書は「私し(宮村)が書いた文面でわありません」(乙17)としているのも、言われて書かされた文面であり自分の考えを示すものではないという趣旨を言わんとしたものと解される。そして、「証言」の内容は、初枝の話を前提としたものにすぎず、座間味戦記に記述されるような梅澤命令それ自体(梅澤命令説が補償問題以前から村で言われており、住民がそのように認識していたことは既に示したとおりである。)が遺族補償のために捏造されたものであることを証するようなものとは評価できないというべきである。 現に、控訴人梅澤も沖縄タイムスの新川明との会談で認めていたとおり(乙43の1及び2)、宮村幸延は、座間味島で集団自決が発生した際には、座間味島にいなかったのであって、・‥昭和20年3月26日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行われたとか、座間味戦記に言われている梅津命令が実際にはなかったなどとと語れる立場にはなかったことは明らかで…ある。 沖縄タイムスが、昭和63年11月3日、座間味村に対し、座間味村における集団自決についての認識を問うたところ(乙20)、座間味村長官里正太郎が、同月13日付けの回答書(乙21のl)で回答したことは、第4・5(2)ア(ア)mに記載したとおりである。座間味村長宮里正太郎は、前記回答書(乙21の1)で「…証言した宮村幸延氏は、当時はひどく酩酊の時で梅澤氏が原稿を書いて来ていろいろ説得され又、強要されたので仕方なく自筆で捺印した様である。しかし、これは決して公表しないことを堅く約束したので書いたもので又、宮村氏も戦争当時座間味村に在住してなく、本土の山口県で軍務にあった。」 として、その記載に疑義を呈するとともに、「遺族補償のため玉砕命令を作為した事実はない。遺族補償請求書は生き残った者の証書に基き作成し、又村長の責任によって申請したもので一人の援護主任が自分で勝手に作成できるものではない」、「当時の援護主任は戦争当時座間味村に住んでなく、住んでいない人がどうして勝手な書類作成が出来るでしょうか。」とも記載している。また、同文書に添えられた田中村長の県援護課等への回答にが、宮村幸延の証言として「その日は投宿中の 旧日本兵二人と朝六時頃から酒を 飲んでいた、午前10時頃に問題の梅沢氏が入り込んできて「私も年だ、妻子に肩身のせまい思いを一生させたくない、茲に原稿を書いてきてある、私の字体は判るので書き直して捺印を瀬むJと強要され、しかもこれは家族だけに見せるもので絶対に公表しない事を堅く約束するとの事で仕方なく応じ、これはなんの証淋にもならないことを申し添えたと本人は証言し且つ新聞記載のことで怒ったら確かに酒をのんでいた人に申し訳ないと詫びていた由」とされている。さらに、参考資料として、「村長田中登は、梅沢海上挺進第一戦隊の座間味島進駐時には、主任書記で軍との渉外係も兼ねていた。この特攻隊受け入れで、当時の模様を簡単に記して参考にしたい。座間味村は人口釣500名の小さな島であったがその小さな島に人口の約倍の1000人余の日本部隊が進駐してきたので村も島も騒ぐのは当然であった、しかも同部隊は有名な海上特攻隊とその支援部陣であればなおさらだ。」「太平洋戦争では南方輸送路の中継の基地として利用され、続いて昭和19年9月の始めには沖縄防衛の海上特攻隊の約5割がケラマに配備される等軍事一色に塗りつぶされた村となって、軍政下の村政といった感が大きくされ、 この特攻隊が良く言われた秘密兵団でその訓練を「見るなJという事だったが生活は山との関わりが多く畑も山の段ゝ畑で家畜の草も薪取りも皆、山だった、従って山に登れば彼等の訓練を見るなといっても見える訳で見たからには軍事機密の漏洩防止の上から住民の村外えの移動は厳しく規制された。本土から親面会に来た者が戦後まで帰れなかった例や租界(ママ)まかりならぬという厳しい規制が行われ軍事至上主義がつくられた社会環境になった。その様な中での悲惨な上陸戦闘を迎え、助役の命令では住民は動かなかったと思う、軍命だと聴いて自決に動いたと皆が話している。」と当時の実情を記載している。宮村幸延は、当時のこのような事情を知らず、日本軍と村の関係や集団自決の背景には通じていないのであり、座間味村からすれば、まさに自決命令について語れる立場になかった者といえる。 (カ) こうした事実に照らして考えると、宮村幸延の「証言」の記載内容は、初枝の話を前提とするものという以上の意味を持つものとはいいがたく、併せて、これに関連する控訴人梅澤の陳述書(2)(甲B33)も措信し難い。 カ(ア) 「母の遺したもの」には、第4・5(2)ア(イ)eのとおり、「沖縄敗戦秘録一悲劇の座間味島」に掲載された初枝の手記の控訴人梅澤の集団自決命令について、援護法の適用を求め、その適用を受けていた住民、遺族等に配慮して、「座間味戦記」の記載を引用したとの趣旨の記載がある。 (イ) しかしながら、第4・5(2)ア(イ)eに引用した「母の遺したもの」の記載を子細に検討すれば、初枝は、座間味村の住民が玉砕命令の存在を信じていたことから、援護法適用の調査に「はい、いいえjで答えたと語るにすぎず、初枝としても集団自決についての日本軍の責任自体を否定するような考えを有していたわけではなく…「村の長老」から虚偽の供述を強要されたことなど援護法適用のために控訴人梅澤の自決命令をねつ造したことを直ちに窺わせるものではない。自決命令の具体的な内容自体はそれまでに既に存在し、他の者も供述していたのであり、それを前提に「はい、いいえjで質疑応答され、初枝自身の見聞きした本部壕での控訴人梅澤とのやり取りを述べなかったというにすぎない。この点、宮城証人は、その陳述書に「隊長命令については、『住民は隊長命令で自決したといっているが、そうか』との質問に「はい」と答えたと書きましたが、それ以上に自分から説明はしなかったとのことです。」と、「母の遺したもの」の記載の趣旨を補足している(乙63・11頁)。 (ウ) そして、これまでに判示してきたせ援護法の適用こついての事実からすれば、「母の遺したもの」から集団自決について援護法の適用のために梅澤命令説が捏造されたとは認めることはできない。 キ 他方、控訴人梅澤に対して、村当局から、援護法適用のため自決命令を出したことにしてくれなどという依頼がなされた形跡はなく、控訴人梅澤もその様な依頼を受けたことを述べていない。しかし、仮に村当局や陳情担当者が自決命令は本当はなかったものだなどと考えていたとしたら、命令を出したとする日本軍や隊長らへの反面調査への対策などを検討せずに、一方的に自決命令を捏造するなどどということは考えにくい。厚生省は現地調査をしているのであり、それに基づき当然日本軍側からの裏付けも必要となり聞き取りをするであろうことは、公務に徒事している以上当然判っていることで、その調査結果とも合致すると考えているからこそ、特に控訴人梅澤への工作などしないままに実情を訴えて法の適用(この点では解釈の余地がある)を陳情したものと考えるのが自然である。厚生省における当時の事務処理の経緯等は本件訴訟には提出されていないが、先に見たような沖縄戦の戦闘参加者の実態把握と詳細な分類による処理要項の策定が、旧日本軍側への調査なしになされたとは考えにくいのであって、その内容は、当時の調査結果に裏付けられていたものと考える方が合理的である。 当時の行政過程の詳細な実態分析などは歴史学者の研究や議論に待つとしても、先に見た分類Nの自決命令などという重大な事柄が、行政庁内で軽々しく捏造されたなどとは考えにくい。ちなみに、行政経験を有する照屋昇雄の本件訴訟中になされた前記の赤松大尉への命令捏造依頼説は、このような疑問こ応えようとするものであったと考えられるが、前述のとおり、成功したとはいえない、 ク 以上を総合すると、沖縄において、住民が集団自決について援護法が適用されるよう強く求め、自決命令の有無がそれに関係していたことは認められるものの、そのために梅澤命令説及び赤松命令説が捏造されたとは認めることはできない。なお、この関係で、梅澤命会がなかったとして当審において新たに提出された「宮平秀幸新証言」は到底採用できないものであるが、これについては後述する。 (4) 集団自決に関する文献等の評価について (2)で指摘したとおり、座間味島、渡嘉敷島における集団自決に関しては、多数の諸文献、証言等が存するところ、控訴、被控訴人らにおいては、その信用性等を争う諸文献等が存するので、真実性及び真実相当性の判断に先立ち、次に、そうした諸文献等の信用性等について判断する。(なお、本件訴訟提起後に訴訟の争点に関してなされた供述・証言等と異なり、歴史的文献や証言についての総合的な評価や意義付けは、本来、その作成し証言された時代の背景や社会状況、関連史料との比較検討等をも踏まえて多角的に行われるべき歴史研究の課題である。沖縄史料編集所専門員の大城将保は、沖縄戦記録の事業が現在も進行中であり、戦史、戦記類は知る限りでも700冊にのぼると述べ、沖縄県史の作成に関与した安仁屋政昭は、その作集について第4.5(2)ア(ア)a(本判決151頁)に引用したようなことを述べている(甲104資料1の3頁以下、乙11)。以下は、当然ながら、本件の名誉毀損による個人の権利の救済に必養な限りで、挙証責任を踏まえて要件事実の判断に必要な限度で行うものにすぎない。、そして、これについては、当審でも控訴人らから証拠等の評価について種々の主張が なされている。それらを検討してみても、以下に変更、補正するものを除き、原判決の判断を変更するまでには至らない。) |