家永教科書裁判 家永教科書裁判は、高等学校日本史教科書『新日本史』(三省堂)の執筆者である家永三郎氏が教科用図書検定に関して国を相手に起こした一連の裁判をいいます。 第一次訴訟(1965年)、第二次訴訟(1967年)、第三次訴訟(1984年)を総称して家永教科書裁判といいます。 1997年、最高裁判所で、第三次訴訟が結審しました。 原告の家永三郎氏は、「教科書検定は憲法違反である」と主張しました。最高裁は、「検閲にあたらない」とし、教科書検定制度を合憲としました、一部には国側の裁量権の逸脱があったと認定しました。 ここでは、1997年8月29日に最高裁の判決が出た第三次訴訟の沖縄戦のみを取り扱います。 家永教科書裁判では第三次訴訟で沖縄戦での住民犠牲について争われた。争点は、集団自決を記述せよとの文部省の検定意見は適当か、集団自決と住民殺害(いわゆる住民虐殺)はどちらが多いか、集団自決の様相はどんなものだったか、などであった。法廷では双方が証人を立てて沖縄戦での住民犠牲の有様を陳述した。 第一審では原告側が大田昌秀(琉球大教授)、金城重明(沖縄キリスト教短期大教授)、安仁屋政昭(沖縄国際大教授)、山川宗秀(沖縄県立普天間高校教諭)が立ち、被告(国)側は曽野綾子(作家)、一富襄(元防衛庁戦史教官)が立った。 第二審では、原告側が石原昌家(沖縄国際大教授)、被告側が波多野澄雄(筑波大教授)が立った。 大田昌秀は、沖縄戦の特徴が住民殺害と「集団自決」などの住民犠牲にあることを述べた。金城重明は自身の「集団自決」の体験を証言し、それが自発的な意志ではなく日本軍に追い込まれたものであることを述べた。安仁屋政昭は、自らの20年以上もの長い住民への証言聴取経験を背景に、住民虐殺も「集団自決」もおなじく日本軍に責任があり、軍総指揮官にその意図(命令)があったこと、直接的な軍命がなくても、軍が作り出した状況自体が決定的だとした。また、「赤松が、集団自決を命令した、命令しなかったという事件よりも、住民処刑のほうがもっと問題だ」と述べた。山川宗秀は沖縄戦の学習状況を説明し、検定意見では間違った内容が生徒に伝わるとの意見を述べた。曽野綾子は、渡嘉敷島での自分の取材経緯を説明し、「集団自決」の時に軍からの命令があったという証言はなかったと述べた。一富襄は住民は自らの意志で軍に協力し、また自決したと確信していると述べた。石原昌家は、その長い証言取材経験から住民犠牲の態様を30程に分類し、住民虐殺も「集団自決」もともに日本軍に原因があり、追い込まれたものと説明した。波多野澄雄は住民虐殺と「集団自決」は違う分類と したが、ともに日本軍に強いられたものという説明を行った。 曽野綾子は第一審で証人として立ち多くの質問に答えている。それによれば、渡嘉敷島には10日間程度1人で滞在して取材した、当時兵事主任であり軍命を受けたと証言している富山真順について、「彼がそれだけのことを知っているのならば飛びついて、すぐに取材をしていたはずだが、村の誰もそのようなことは言わなかった」とし、富山真順自身は曽野綾子に会ったと証言したが、曽野は富山には取材はしていないと証言した。住民の多くの証言が収録されている『沖縄県史・第10巻』は読んでいない(これから買います)、自著で批判した『鉄の暴風』の執筆者太田良博から批判があり沖縄タイムス上で論争をしたこと、自著の「ある神話の背景」では「集団自決」の強制となる証拠は見当たらなかったという事を書いたつもりだ、と述べた。 判決は第一審から第三審まで検定意見は適法とし、国が勝訴した。その前の事実認定としては住民殺害より集団自決の方が数が多いとは必ずしも言えない、集団自決については「学会の状況にもとづいて判断すると、本件検定当時における沖縄戦に関する学会の状況は(中略)日本軍の命令によりあるいは追いつめられた戦況の中で集団自決に追いやられたものがそれぞれ多数にのぼることは概ね異論のないところであり」とし、集団自決の原因については、「集団的狂気、極端な皇民化教育、日本軍の存在とその誘導、守備隊の隊長命令、鬼畜米英への恐怖心、軍の住民に対する防諜対策、沖縄の共同体の在り方など様々な要因が指摘され、戦闘員の煩累を絶つための崇高な犠牲的精神によるものと美化するのは当たらないとするのが一般的」とした(第三次訴訟・高裁判決文)。 |
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