エピソード

大江・岩波沖縄戦━裁判年表

(1)この年表は、大阪高裁の判決文を基礎に作成しました。月日については、一部加筆しています。
(2)「Will」(緊急増刊『沖縄戦-集団自決』8月号)より加筆しました。「Will」8月号と表示しています。
(3)オバマ氏は、意見の異なる牧師を大統領の就任式の立会人に選び、第44代の大統領になりました。
(4)他方、日本では、自虐史観とか謀略史観などと非難・中傷合戦です。都合のいい資料も悪い資料も提示して、
自由に議論して、本当の学問・研究と言えます。
(5)川下の左右も、川上から見れば、その逆です。左右でなく、東西という視点から見るべきです。この年表は、
そういう意図で編集しています。
内容 両者主張・高裁判断
昭和15(1940)年
    統計によれば、座間味村の人口は約2350人 (高裁の判断)
昭和16(1941)年
12月 8日 太平洋戦争は始まる 事実関係
昭和17(1942)年
1月 8日 毎月8日の「大詔奉戴日」に、日本軍や村長・助役(防衛隊長兼兵事主在)らから、
戦時下の日本国民としてのあるべき心得を教えられ、「鬼畜である米兵に捕まると、
女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺される。その前に玉砕すべし」と指示され
ていた
事実関係
6月 6日 ミッドウェー沖海戦を機に日本軍は劣勢を強いられる 事実関係
昭和19(1944)年
    渡嘉敷村の人口は約1400人 (高裁の判断)
3月 22日 南西諸島を防衛する西部軍指揮下の第32軍が編成 事実関係
4月   第3戦隊は、海上特攻隊として編成(特攻船艇約100隻保有) (高裁の判断)
6月   第32軍の実戦部隊が沖縄に駐屯を開始 事実関係
7月 9日 サイパン島が陥落(アメリカ軍の占領宣言) 事実関係
9月 9日 鈴木少佐を隊長とする第3基地隊約1000人の兵隊が、渡嘉敷村に上陸し、陣
地構築。国民学校の生徒を動員して協力
(高裁の判断)
10日 梅澤を隊長とし、特攻船艇約100隻を保有する海上艇進隊約100名と基地守備
隊約800名が進駐
(高裁の判断)
11日 梅澤隊の陸揚作業が始まり、民家に分宿 (高裁の判断)
20日 赤松隊長ら海上挺進第3戦隊104人が、渡嘉敷島に駐屯 (高裁の判断)
22日 梅澤隊の陣地構築に取りかかった。住民は、壕堀作業等に全島を挙げて従事し
た。初枝が団長を務めた女子青年団などが中心となって、救護、炊事などで日
常的に部隊に協力していた
(高裁の判断)
座間味島には梅澤が指揮する第1戦隊、渡嘉敷島には赤松大尉が指揮する第
3戦隊が配備される
事実関係
10月 10日 米軍による大規模な空襲を受け、沖縄や沖縄における重要な軍事施設は大き
な被害を被った
(高裁の判断)
空襲以降、慶良間列島では、徴用で陣地構築作業に従事していた男子77名が
改めて召集され、兵隊とともに国民学校に宿営
(高裁の判断)
以降の防衛召集者は、2万人を超えた (高裁の判断)
11月 18日 第32軍は、総力戦体制への移行を急速に推進し、「軍官民共生共死の一体化」
(米軍に投降したり捕虜になることは絶対的に禁止)を具現するとの方針を発表
(高裁の判断)
昭和20(1945)年
1月   〜3月、防衛隊は、陸軍防衛召集規則に基づいて召集された部隊で、17歳〜
45歳の男子が対象とされ、沖縄の住民が召集さる
(高裁の判断)
2月 19日 米軍が硫黄島に上陸 事実関係
26日 第3基地隊は特攻基地が完成間近、勤務隊の一部と通信隊の一部とを第3戦隊
の配下に残して、沖縄本島に移動した
(高裁の判断)
3月   米軍進攻当時、慶良間列島の守備隊はこれらの戦隊のみ (高裁の判断)
6日 この日の召集者1万4000人(琉球政府社会局援護課の資料) (高裁の判断)
20日 赤松ら第3戦隊は陣地を完成させ、迎え撃つ準備完了。古波蔵村長、防衛隊長、
富山兵事主任、安里巡査らが軍の指示を住民に伝達
(高裁の判断)
赤松隊から富山兵事主任に住民集合伝令。その後、兵器軍曹が手榴弾を配付
(富山兵事主任の供述)
事実関係
「23日の陸上戦を予想せず」→「この日、役場の職員から手榴弾の交付を受けた
とする金城証人の証言は虚偽」
(控訴人の主張)
渡嘉敷村役場「渡嘉敷村史」(赤松隊からの伝令で兵事主任・新城真順氏は、軍
の指示に従って役場の前庭に集めた。兵器軍曹は手榴弾を2個ずつ配り、『一発
は敵に、残りの一発で自決』と訓示
(高裁の判断)
21日 「米軍の慶良間列島作戦報告書」
「尋問された民間人たちは、日本兵が、慶留間の島民に対して、『山中に隠れ、
米軍が上陸してきたときは自決せよ』と命じた語っている」との記述がある。「(座間
味村では)治療を施された外傷の多くは自傷によるものである。捕らわれないため
に自決するように指導(勧告)されていた」との報告
(高裁の判断)
23日 「この日、第3戦隊においては空襲と艦砲射撃が始まるまで陸上戦を予想していな
かった」(皆本証人)
(控訴人の主張)
沖縄は米軍の激しい空襲に見舞われる 事実関係
宮平春子(盛秀助役の妹)は陳述書「空襲から逃れるため、民間の壕に避難、その
壕にいた日本の兵隊から、『捕まったら強姦され、残酷に殺されるから、自分で死
になさい』と言われました。日本軍の人たちは、捕虜にさせないため、自決させなけ
ればならないと思っていた」
(高裁の判断)
24日 艦砲射撃も加わる 事実関係
25日 赤松大尉は出撃命令を出さず、米軍に発見されるのを防止するためとして、特攻
船艇をすべて破壊することを命じた
(高裁の判断)
梅澤隊長は「今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい」→その後、集団自決 事実関係
宮平春子(盛秀助役の妹)は陳述書「座間味島の集団自決は、軍の命に間違いな
い。軍の命令がなければ可愛いい子どもたちを死なせるようなことは決してない」
(高裁の判断)
宮里育江の陳述書「特幹兵から『自決しなさい』といって私が手榴弾を渡された。『栓
を抜いてたたきつけると破裂するから、そうして自決しなさい』と教えられました。座間
味島の集団自決は、村の幹部が軍の命令なしに勝手に行ったものではない。当時、
村の3役は軍の指示や命令なしに勝手に行動することは許されませんでした」
(高裁の判断)
27日 米軍の上陸前、赤松大尉は、安里巡査に対し、住民を西山陣地北方の盆地に集合
を指示→安里巡査は、防衛隊員らと伝達
(高裁の判断)
午前、米軍の一部が迫撃砲の援護を受けて、戦車30台で上陸を始め、応戦した日
本軍の小部隊はほとんど全滅した
(高裁の判断)
「戦闘概要」(午後、赤松隊長より、村長と駐在巡査を通じて命令伝達→指定された
西山軍陣地北方に集結)
(高裁の判断)
安里喜順が西山の友軍陣地北方の盆地へ集合命令が伝える 事実関係
小峰園枝は、「義兄が、防衛隊だったけど、隊長の目をぬすんで手榴弾を2個持っ
てきた」と供述→手榴弾が軍の管理はこんなもの
(控訴人の主張)
米軍上陸(「鉄の暴風」・「戦闘概要」・「戦争の様相」は3月26日と間違って記載→
信用できない)
(控訴人の主張)
「戦闘概要」(夕刻、巡査安里喜順より1人残らず西山の友軍陣地北方の盆地へ集
合命令が伝えられた)
(高裁の判断)
「沖縄県史 第8巻」(夕刻、駐在巡査安里喜順を通じ、住民を西山陣地北方の盆
地に集合を指示→赤松大尉は『集団自決』を命じた)
(高裁の判断)
渡嘉敷村役場「渡嘉敷村史」(駐在の安里より、「住民を軍の西山陣地近くに集結
させよ」という軍の命令が兵事主任に伝えられた)
(高裁の判断)
28日 渡嘉敷島住民は防衛隊員などから配布の手榴弾集団で死亡 (高裁の判断)
「自決の起こったは午前1時頃に主力部隊と合流」(皆本証人) (控訴人の主張)
午前3時頃、「赤松大尉の下に報告に行ったが、自決命令に関する話は一切なか
った」(皆本証人)
(控訴人の主張)
皆本証人について(昭和20年3月27日及び同月28日の赤松大尉の言動を把握
できる立場にあったとは認めがたく、また、その陳述書に記載された手榴弾に関す
る記述は、証人自身の証言と齟齬し、信用できない)
(高裁の判断)
「部下から集団自決が起きたとの報告を受けた」(皆本証人) (控訴人の主張)
午後1時(?)、渡嘉敷島の集団自決 事実関係
住民が摘虜になることがないよう、赤松大尉が自決命令を出したということは十分
に考えられる(知念証言)
(控訴人の主張)
知念証人について(自決用等として手榴弾を配布したことは、各諸文献から明ら
か→貴重な武器である手榴弾を配布したことを副官を自称する知念証人が知ら
ないというのは、極めて不合理)
(高裁の判断)
「戦闘概要」(午前10時頃、部隊より20名に対し、1個ずつの手留弾が配付、午
後1時頃、皇国の万才と日本の必勝を祈り、一せいに玉砕)
(高裁の判断)
渡嘉敷村役場「渡嘉敷村史」(恩納河原の上流フィジガーで、手榴弾による住民の
〈集団死〉事件が起きた。手榴弾は軍により厳重な管理。赤松嘉次大尉が全権限を
握り、村の行政は軍の命令が貫徹)
(高裁の判断)
「沖縄戦ショウダウン」(「夕刻、古波蔵村長が立ち上がり、『これから天皇陛下のた
め、御国のため、潔く死のう』『天身陛下万歳!』と斉唱」
(高裁の判断)
下旬 集団自決者は沖縄本島中部(数10人)、慶留間島(数10人) (高裁の判断)
29日 赤松隊が集団自決を知る(『陣中日誌』) (控訴人の主張)
「陣中日誌」(「曇雨 悪夢の如き様相が白日眼前に洒された昨夜より自訣したるも
の約2百名(阿波連方面に於いても百数十名自訣、後判明)首を縛った者、手榴
弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で頸部を切断した
る者、戦いとは言え言葉に表し尽し得ない情景」)
(高裁の判断)
4月 上旬 集団自決者は沖縄本島西側美里(約十人) (高裁の判断)
下旬 集団自決者は伊江島(100人以上)、読谷村(100人以上)、沖縄本島東部の具志
川グスク(十数人)
(高裁の判断)
集団自決者の統計
渡嘉敷村 座間味村 *A前島 合計 出典
      約700人 「鉄の暴風」
103人 155人   258人 「史実資料」
      313人 「沖縄作戦講話録」
329人 284人   613人 「沖縄作戦講話録」
      613人 「沖縄県史 第8巻」
  *B200人     「座間味村史 上巻」
*A前島(日本軍が駐屯せず) / *B座間味部落
(高裁の判断)
8月 15日 この日まで、「隊の誰からも自決命令の話はない」(皆本証人) (控訴人の主張)
昭和25(1950)年
8月 30日 「鉄の暴風」を沖縄タイムス社が発行(援護法以前に、日本軍の隊長の命令による
ことを記載)
事実関係
援護法の公布(昭和27年4月30日)より以前に発行された「鉄の暴風」に、梅澤及
び赤松大尉が自決命令を出した具体的に記載
(高裁の判断)
当時から、「鉄の暴風」は風説と伝聞に基づいて創作 (控訴人の主張)
昭和27(1952)年
4月 30日 援護法の公布(軍人軍属等であつた者又はこれらの者の遺族を援護することを目
的して制定)
(高裁の判断)
援護法の公布。一般住民は適用外 (控訴人の主張)
7月 1日 政府、援護業務推進のために、「南方連絡事務局」を創設(〜1958年5月14日) (控訴人の主張)
昭和28(1953)年
3月   照屋昇雄は、琉球政府社会局援護課に勤務していたと供述 (控訴人の主張)
26日 政府、北緯29度以南の南西諸島に現住する者に対して援護法を適用する旨公表 (高裁の判断)
  北緯29度以南の南西諸島にも援護法の適用が認められる (控訴人の主張)
28日 「戦闘概要」発行(当時の渡嘉敷村村長や役所職員、防衛隊長らの協力、渡嘉敷
村遺族会が編集)
事実関係
4月 1日 琉球政府(社会局に援護課を設置、援護事務を取り扱う) (高裁の判断)
昭和29(1954)年
10月 19日 照屋昇雄は、琉球政府の社会局援護課の援護事務の囑託職員 (高裁の判断)
昭和30(1955)年
    沖縄市町村長会「地方自治七周年記念誌」(梅澤が老人・子供に対して忠魂碑前
での玉砕を命じた旨の記述)
(高裁の判断)
3月   総理府事務官の馬淵新治が、援護業務のため沖縄南方連絡事務所へ着任 事実関係
  終戦後援護業務のため沖縄に出張滞在した厚生事務官馬淵新治が防衛研修所
戦史室の依頼により執筆した報告書(戦斗協力者と有給軍属、戦斗協力者と一般
軍に無関係な住民との区別至難な問題)
(高裁の判断)
5月 1日 照屋昇雄は、旧軍人軍属資格審査委員会臨時委員 (高裁の判断)
12月   照屋昇雄は、沖縄中部社会福祉主事として勤務 (被控訴人の主張)
  照屋昇雄は、琉球政府に採用→沖縄中部・社会福祉主事 (高裁の判断)
  照屋昇雄の産経(平成18年8月)証言(規定の中に隊長の命令によって死んだ場
合はお金をあげましょうという条文がある。玉井喜八村長さんが参加。その時に厚
生省の課長さんから、赤松さんが村を助けるために十字架を背負いますと言って
いると聞いて、村長が早速赤松隊長の自宅に会いに行って、お前らが書ければサ
インして判子押しましょうということになった)
事実関係
25日 照屋昇雄の産経(平成18年8月)証言(玉井喜八村長が帰ってきた。昭和31年
15日か16日に間に合わせるように隊長命令を書くと言うことで、2人で夜通しで
作った)
事実関係
昭和31(1956)年
    この頃まで照屋昇雄が100名以上の調査結果、自決命令が公認 (控訴人の主張)
3月   中等学校生徒・女子戦没学徒、援護法の適用開始 (控訴人の主張)
  戦闘参加者の範囲を決定するため、戦争体験の実情調査に厚生省の援護課事
務官が派遣される
(高裁の判断)
7月 20日 最高裁判決(名誉を毀損するとは・・) 事実関係
最高裁判決(ある書籍中の記述が他人の社会的評価を低下させるかは、一般の
読者の普通の注意と読み方とを基準として判断すべき)
(高裁の判断)
10月 1日 宮村盛永著「自叙傳」起稿(盛秀助役が父宮村盛永に玉砕命令の予告をした旨
の記述)
(高裁の判断)
照屋昇雄は、沖縄南部福祉事務所に配置換え (高裁の判断)
昭和32(1957)年
    この頃「座間味戦記」(座間味村が援護法の適用を申請する際の資料として厚生省
に提出)(梅澤が玉砕するよう指示した旨の記述)
(高裁の判断)
    この頃「座間味戦記」で初めて、梅澤命令説が現れる (控訴人の主張)
3月   渡嘉敷村で、援護法適用者の調査を実施 事実関係
4月   座間味村で、援護法適用者の調査を実施 事実関係
5月   「戦斗参加者概況表」(隊長命令による集団自決」が、戦闘参加者の20類型の1と
記載)
事実関係
7月   厚生省、「沖縄戦の戦闘参加者処理要綱」を決定(20種類に類型化)→隊長命令
は重要な考慮要素とされたが、要件ではなく、隊長の命令がなくても戦闘参加者に
該当すると認定されたものもあった
(高裁の判断)
    集団自決が戦闘参加者に該当することを決定(隊長の命令がなくても戦闘参加者
に該当すると認定された自決の例もあった)
(高裁の判断)
昭和33(1958)年
2月 15日 照屋昇雄は、社会局福祉課に配置換え (被控訴人の主張)
照屋昇雄は、社会局福祉課に配置換え (高裁の判断)
10月   照屋昇雄は、社会局援護課に在籍 (被控訴人の主張)
  照屋昇雄は、社会局援護課に在籍 (高裁の判断)
    山川泰邦「秘録 沖縄戦史」発行(梅澤が自決を指示した旨の記述) (高裁の判断)
    梅澤命令説を広めた「秘録 沖縄戦史」は「座間味戦記」の引用 (控訴人の主張)
昭和34(1959)年
1月   上地一史著「沖縄戦史」発行(梅澤が自決を指示した旨の記述) (高裁の判断)
    「沖縄戦史」の記述は、「秘録 沖縄戦史」とほぼ同様であり、「沖縄県史第8巻」の
内容も「秘録 沖縄戦史」。「沖縄県史 第10巻」は、「悲劇の座間味島 沖縄敗戦
秘録」所収の初枝の「血ぬられた座間味島」を参考
(控訴人の主張)
    自決命令捏造の結果、戦闘参加者への援護法が適用される (控訴人の主張)
昭和38(1963)年
10月   6歳未満の集団自決者も「準軍属」 (控訴人の主張)
昭和40(1965)年
6月 21日 「沖縄問題20年」出版→昭和49年絶版(「ある神話の背景」により、赤松大尉の自
決命令が虚偽であることが露見)
(控訴人の主張)
昭和41(1966)年
6月 23日 最高裁判決(事実を真実と信ずるについて相当の理由があれば、その故意又は過
失が否定され、不法行為は成立しない)
(高裁の判断)
昭和43(1968)年
1月 15日 防衛庁防衛研修所戦史室「沖縄方面陸軍作戦」(「当時の国民が1億総特攻の気
持ちにあふれ、非戦闘員といえども敵に降伏することを潔しとしない風潮がきわめ
て強かったことがその根本的理由」→住民が軍の命令によってではなく自発的に
自決に至った)
(高裁の判断)
2月 14日 「太平洋戦争」が出版(赤松大尉の自決命令が記述) 事実関係
    「太平洋戦争」は「当時に真実性ないし真実相当性が認められ長く読み継がれてい
る書籍の出版の継続が、不法行為に当たるとはいえない」
(高裁の判断)
    下谷修久著「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(梅澤が自決を指示した旨の記述) (高裁の判断)
    「座間味戦記」を引用して、公開の文献である「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」
に自決説を掲載
(控訴人の主張)
    「週刊新潮」(赤松大尉の手記は、赤松命令説を否定) (高裁の判断)
4月 8日 琉球新報(赤松大尉は、赤松命令説を否定) (高裁の判断)
昭和44(1969)年
    山川泰邦著「秘録 沖縄戦記」 事実関係
3月   「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(「ドキュメント沖縄闘争 新崎盛暉」所収) 事実関係
    富山兵事主任は、2回ほど曽野綾子の取材に応じている(「ある神話の背景」は、
不都合なものを切り捨てた著作である)
(被控訴人の主張)
昭和45(1970)年
    曽野綾子は、赤松大尉への取材を極めて丁寧に行う (高裁の判断)
    沖縄の「核つき返還」などが議論される 事実関係
3月 26日 赤松大尉が慰霊祭出席のために渡嘉敷島を訪れた際の厳しい抗議行動が報道
→大江氏は態度を決意→「沖縄ノート」へ
(被控訴人の主張)
27日 神戸新聞(集団自決を命じたといわれる赤松大尉が那覇空港で民主団体等に責
任を追及され大騒ぎになったと報道)
(高裁の判断)
28日 慰霊祭に参加しようとしたが、「虐殺者赤松を許すな」などの張り紙を掲げた反対派
の行動もあって那覇市から渡嘉敷島に渡る船に乗らず
(高裁の判断)
沖縄タイムス及び琉球新報の夕刊(「赤松氏」又は「赤松元大尉」と大書して報道) (高裁の判断)
4月 17日 同日付け号アサヒグラフ(大尉は、元隊長として過去の責任追及を受け、慰霊祭に
参加できなかったと報道)
(高裁の判断)
8月 15日 谷本小次郎(第3戦隊の隊員)「陣中日誌」を発行(抗議行動報道後の戦後20年
以上経過してから)
事実関係
21日 週刊朝日(梅澤・赤松・安里巡査、自決命令を否定)) 事実関係
  「沖縄・70年前後」を出版 事実関係
9月 21日 「沖縄ノート」が出版される(沖縄の民衆の重く鋭い怒りの矛先が大江ら日本人に
向けられている)
(被控訴人の主張)
昭和46(1971)年
4月 28日 琉球政府編集「沖縄県史 第8巻」(梅澤が自決を指示した旨の記述) (高裁の判断)
10月 1日 「諸君!」10月号(「ある神話の背景ー沖縄・渡嘉敷島の集団自決」連載開始)」) 事実関係
11月 1日 「潮」11月号、富山兵事主任「自決のときのことは話したくないンですがね…」 事実関係
「潮」11月号(赤松大尉のことが週刊誌で数回取り上げられたことのほか、慰霊祭
に参加できなかったことを記載)
(高裁の判断)
「潮」11月号(金城証人の体験談「赤松大尉は直接命令を下さなかったという説も
ある」
(高裁の判断)
「潮」11月号(赤松大尉の手記「部隊が西山のほうに移動するから住民も集結す
るなら部隊の近くの谷がよいいであろうと示唆した、これが軍命令を出し、自決命
令を下したと曲解される原因だったかもしれない」)
(高裁の判断)
赤松大尉は、「潮」11月号の手記でも、照屋昇雄の証言(産経平成18年8月)に
一切触れていない
(高裁の判断)
赤松大尉の手記について(手記、取材毎にニュアンスに差異が認められるなど不
合理な面を否定できず、全面的に信用することは困難)
(高裁の判断)
昭和48(1973)年
5月 10日 「ある神話の背景」出版→「鉄の暴風」の不確実性は明らか (控訴人の主張)
「ある神話の背景」の出版→自決命令を真実と信じる根拠が失われたということも
ない
(被控訴人の主張)
曽野綾子著「ある神話の背景」(自決命令を最初に記載した「鉄の暴風」は直接の
体験者ではない山城安次郎と宮平栄治に取材。「鉄の暴風」を基に作成したのが
「戦闘概要」、これらを基に作成されたものが「戦争の様相」。「戦争の様相」作成
時に自決命令がないことが確認→記載から除外)
(高裁の判断)
曽野綾子著「ある神話の背景」(前記3つの資料は、米軍上陸日が昭和20年3月
27日であるにもかかわらず、同月26日と間違って記載)
(高裁の判断)
「ある神話の背景」の指摘をも踏まえた伊敷清太郎の分析は 、説得的であると評
価できる。「ある神話の背景」の「戦闘概要」と「戦争の様相」の成立順序について
の記述は採用できず、控訴人らの主張も採用できない
(高裁の判断)
曽野綾子著「ある神話の背景」(「鉄の暴風」は直接の体験者ではない山城安次郎
と宮平栄治に取材判)→「鉄の暴風」が示した住民の体験談と枢要部において齟
齬を来していない。この事実からすると、山城安次郎と宮平栄治に対する取材に
基づくものである旨の批判は、採用できない
(高裁の判断)
照屋昇雄の話(産経平成18年8月)が本当なら、曽野綾子は、赤松大尉が秘密を
守ったがために、「ある神話の背景」の最も根本的なところを誤ってしまったというこ
とになるが、いかにも不自然である。ちなみに、曾野綾子は、軍命令説と年金を得
ることとの関係にもほかの箇所では触れているのであるから、問題自体を認識して
いなかった訳ではなく、赤松大尉からは、その様な話を聞かされてはいないので
ある
(高裁の判断)
    この年以降今日(2008年)まで、自決命令について記載した「鉄の暴風」や「沖縄
県史 第8巻」は訂正されていない
(被控訴人の主張)
昭和49(1974)年
3月 31日 琉球政府編集「沖縄県史 第10巻」(梅澤が自決を指示した旨の記述)→(本編の
証言が誤記と欠落を訂正する資料ともなれば幸い」とし、集団自決の体験者の体
験談を記載)
(高裁の判断)
琉球政府編集「沖縄県史 第10巻」(隊長命令説が削除) (控訴人の主張)
    「沖縄問題20年」が出庫終了(「ある神話の背景」により赤松大尉の自決命令が虚
偽であることが露見)
(控訴人の主張)
    「ある神話の背景」の出版により「沖縄県史第10巻」から隊長命令説が削除→この
段階で、赤松命令説を真実と誤信する根拠は失われた
(控訴人の主張)
7月   以降に出版された「沖縄ノート」第5刷以後不法行為責任 (控訴人の主張)
昭和51(1976)年
10月 20日 「沖縄問題20年」と「沖縄・70年前後」を併せて「沖縄戦後史」を出版した。その結
果、「沖縄問題20年」出庫終了
事実関係
昭和52(1977)年
3月 26日 初枝は、梅澤に会った際、「援護法の適用のためで、梅澤の自決命令はなかった」
旨、告白
(控訴人の主張)
昭和53(1978)年
    「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」(援護法の適用対象とす
ることについて、昭和32年までに政府の調査した事項として軍によって自決を強
要された慶良間列島のケースを紹介)
(高裁の判断)
昭和54(1979)年
3月 14日 東京高裁判決(歴史的事実であることに基づく要件の厳格化) 事実関係
11月   11月(?)、照屋昇雄の産経(平成18年8月)証言(死の3ヶ月前に赤松大尉は何
度も電話を掛けてそれの削除を依頼するほど気にしていた)→宿願の渡嘉敷村史
資料の発行は昭和62年3月31日→不自然
(高裁の判断)
昭和55(1980)年
1月 13日 赤松大尉死亡 事実関係
12月   初枝は、梅沢に面会(援護法適用のために集団自決を控訴人梅澤の命令による
ものだったことにした旨の会話をした」と記載)
(控訴人の主張)
16日 「母の遺したもの」(那覇のホテルでの母から聞いた話」「母が梅澤氏に、『どうして
も話したいことがあります』と言うと、驚いたように『どういうことですか』。母は、『住
民を玉砕させるようお願いに行きましたが、梅澤隊長にはそのまま帰されました。
命令したのは梅澤さんではありません』と言うと、驚いたように目を大きく見開き、
体をのりだしながら大声で『ほんとうですか』と椅子を母の方に引を寄せてきた。母
が『そうです』とはっきり答えると、彼は自分の両手で母の両手を強く握りしめ、周
りの客の目もはばからず『あリがとう』『ありがとう』と涙声で言いつづけ、やがて嗚
咽した」→梅澤が本部壕でのことを億えていなかったとすれば、それはなぜかと
いうこと→マスコミ取材への応答、週刊誌の記事やそれへの反論の類の提出は
一切ない
(高裁の判断)
昭和56(1981)年
    自決命令捏造の結果、壕の追い出しなどで犠件になった6歳未満の子どもたち
にも適用
(控訴人の主張)
    教科書検定で高校日本史から旧日本軍による「住民虐殺」の記述削除 「Will」8月号
9月 4日 沖縄が猛反発。臨時県議会で「教科書検定に関する意見書」を全会一致で採択 「Will」8月号
12月 6日 「住民虐殺」の記述復活 「Will」8月号
昭和58(1983)年
    安里巡査の衆議院外務委員会調査室・徳嵩力宛て手紙(集団自決は軍の命令、
赤松大尉の命令でもなかった)
(高裁の判断)
3月 23日 大阪地裁堺支部判決(死者に対する名誉毀損行為が遺族に対する不法行為とし
て一般私法上の救済の対象となり得る)
(控訴人の主張)
5月 15日 大城将保著「沖縄戦を考える」(「曽野綾子氏は、それまで流布してきた事件の”神
話”に対して資料批判を加えて従来の説をくつがえした」
(控訴人の主張)
26日 東京地裁判決(死者に対する名誉毀損行為が遺族に対する不法行為として一般
私法上の救済の対象となり得る)
(控訴人の主張)
6月 8日 安里巡査は、沖縄タイムスに赤松大尉の直筆の手紙を紹介(「集団自決が軍命で
も赤松大尉の命令でもない」と説明)
(高裁の判断)
昭和59(1984)年
1月 19日 家永教科書裁判第3次訴訟提訴。沖縄戦の住民犠牲についても争われる 「Will」8月号
昭和60(1985)年
4月 8日 沖縄タイムス、太田良博「沖縄戦に”神話”はない」の掲載開始 「Will」8月号
5月 1日 曽野綾子、沖縄タイムスに「『沖縄戦』から未来へ向って」を掲載して太田に反論 「Will」8月号
7月 30日 神戸新聞(初枝の話「梅澤少佐らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と武器
提供を断った」→この時点で、その根拠は失われた
(控訴人の主張)
神戸新聞(「絶望のふちに立たされた島民たちが、追い詰められて集団自決の道
を選んだものとわかった」)
(控訴人の主張)
神戸新聞の報道によっても自決命令の虚偽性が明らかになったとはいえず (被控訴人の主張)
神戸新聞などの報道(「米軍上陸後、絶望のふちに立たされた島民たちが、追い
詰められて集団自決の道を選んだ」)
(高裁の判断)
12月 10日 梅澤は、沖縄タイムス社に対し、記事の訂正と謝罪を要求)。沖縄タイムス社の牧
志伸宏は、「謝罪要求をしないこと、押印」を要求。梅澤が強く非難。沖縄タイムス
は自決命令を出したのではないことを認め、謝罪
(控訴人の主張)
    梅澤は、沖縄タイムスの牧志伸宏に対し、命令説を否定して抗議 (高裁の判断)
昭和61(1986)年
3月 31日 大城将保は、「沖縄史料編集所紀要」に「座間味島集団自決に関する隊長手記」
を発表(控訴人梅澤の手記である「戦斗記録」を掲載した上、「沖縄県史 第10
巻」を実質的に修正)
(控訴人の主張)
6月 6日 神戸新聞(沖縄タイムス社の牧志伸宏は、梅沢命令説などについては、調査不足。
「鉄の暴風」について出版経過と内容の杜撰さを認める)
(控訴人の主張)
神戸新聞(「沖縄県史 第10巻」を修正した大城の見解を紹介) (控訴人の主張)
神戸新聞「『沖縄県史』訂正へ」「部隊長の命令なかった」と報じる 「Will」8月号
神戸新聞(「沖縄県などが、通史の誤りを認め、県史の本格的な見直し作業を始め
た。」「『沖縄資料編集所紀要』では自決命令がなかった」
(高裁の判断)
神戸新聞(大城将保の談話「宮城初枝さんらから話を聞いているが、『隊長命令説』
はなかったというのが真相のようだ。」「梅沢命令説については訂正することになる
だろう」)
(高裁の判断)
大城将保は「私は神戸新聞の記者から電話1本もらったことはない。おそらく梅沢氏
の言い分と私の解説文の一部をまぜあわせて創作したのであろうが、誰がみても事
実と矛盾する内容で、明白なねつ造記事である」
(高裁の判断)
11日 最高裁判決(公益を図る目的のものでない、かつ、被害者が重大にして著しく回復
困難な損害→死者に対する敬愛追慕の情を侵害することを理由に出版を差し止
めることはできない
(被控訴人の主張)
最高裁判決(損害賠償請求における真実相当性に関する要件をあえて外したもの
と解すべき)
(控訴人の主張)
最高裁判決(名誉を違法に侵害された者は、侵害行為の差止めを求めることがで
きるものと解するのが相当)
(高裁の判断)
最高裁判決(事前差止めは、真実でない、公益を図る目的でないことが明白で、か
つ、重大な損害を被るに限り、例外的に許される)
(高裁の判断)
11月 7日 「太平洋戦争 第2版」が出版(赤松大尉の自決命令完全に削除)→自決命令を
虚偽であると認識していた証左
(控訴人の主張)
この時点において、自決命令が出されたとの事実は「歴史的事実」として承認され
ていたし、検定意見も自決命令説を撤回せず
(被控訴人の主張)
この当時迄の著者家永3郎の歴史認識を示した(「太平洋戦争」の記述) (被控訴人の主張)
昭和62(1987)年
3月 26日 宮村幸延、「この紙に印鑑を押してくれ」と迫られたが、拒否(後に証言) 事実関係
27日 宮村幸延、泥酔状態で押印(後に証言) 事実関係
28日 村長の田中登から指示を受けた梅澤は、宮村幸延は、突然謝罪し、援護法を適
用するために軍命令という事実を作り出さなければならなかった経緯を語った→
「述べたことを文書にしてほしい」と梅澤が依頼
(控訴人の主張)
その結果、宮村幸延は、梅澤に対し、「証言」と題する親書を手交 事実関係
宮村幸延(盛秀助役の弟)の 「証言」(親書)には、「昭和2十年3月2六日の集団
自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の
命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむえ得えず隊長命
として申請した、ためのものであります 右当時援護係宮村幸延」
(高裁の判断)
梅澤の陳述書(宮村幸延の 「証言」(親書)について、「控訴人梅澤が原稿を書い
たのであれば、末尾宛名の「裕」の字を間違えるはずがないし、宮村幸延が泥酔
状態であれば、筆跡に大きな乱れが生じるはず」
(控訴人の主張)
4月 18日 神戸新聞が「座間味島の集団自決の命令者は助役だった」「遺族補償得るため
”隊長命”に」と報じる
「Will」8月号
神戸新聞(「遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した」との宮村幸延の
談話を記載)→真実と誤信する相当性は完全に失われた
(控訴人の主張)
23日 東京新聞が「村助役が命令」と報じる 「Will」8月号
24日 最高裁判決(公益を図る場合に、真実であることの証明があったときには、論評とし
ての域を逸脱したものでない限り、違法性を欠かない)
(高裁の判断)
12月 1日 「小説新潮12月号」本田靖春著ノンフィクション「座間味島一九四五」(秀幸からの
聞き取り「秀幸が梅澤部隊長の傍らに居て、自決してはいけないとの命令を聞いた
とか、村長がそれを住民に伝え解散を命じたなどの話とは全く異なっており、秀幸
はこれらを聞いていないことになっている」)
(高裁の判断)
昭和63(1988)年
1月   宮城晴美の「座間味村史」のため聞き取り調査(「母の遺したもの」も含め、忠魂碑
前に村長が来たことや解散命令を出したことを述べた者はいない」→藤岡教授は、
「箝口令があり、子供はものごころがついていなかった」と解説→採用できない
(高裁の判断)
1日 本田靖春が『小説新潮』に「第一戦隊長の証言」を掲載。自決命令説を否定 「Will」8月号
    「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」(「証人自身は、直接その自決の
命令が出た話を直接聞いたか)はい、直接聞きました」)
(高裁の判断)
    「家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」(「曽野綾子は、『ある神話の背
景』でこれを否定→兵事主任の自決命令証言は決定的」)
(高裁の判断)
    当時、座間味村の公式見解(援護法による遺族給付を継続→過去の受給につい
ても違法と評価されることを避けるため、梅澤による自決命令があったという真実に
反する回答をしたのも当然)
(控訴人の主張)
6月 16日 朝日新聞(富山兵事主任の、日本軍の自決命令があった旨の供述) 事実関係
朝日新聞(富山兵事主任の供述が掲載されて赤松大尉の自決命令が肯定) (被控訴人の主張)
この年になって、富山兵事主任が突然、手榴弾の配布を自決命令と語り始めたの
は信用性がない
(控訴人の主張)
朝日新聞夕刊(富山真順兵事主任は、「玉砕場のことなどは何度も話してきた。あ
の玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも
思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし1人。知れきったこと
だが、あらためて証言しておこうと思った」)
(高裁の判断)
11月 1日 梅澤の陳述書(「私の提出した宮村幸延氏の『証言』を前に対応に困惑。遂には、
沖縄タイムス社の新川明氏は、自分の謝罪文を口述し、新川明氏が書き取った」
→沖縄タイムスは、梅澤と面談した直後(11月3日)、公式見解について照会。回
答前に困惑して謝罪したというのは、不自然)
(高裁の判断)
3日 沖縄タイムス社は、座間味村村長に対し、公式見解について照会。座間味村村
長は、宮村幸延は酩酊状態で控訴人梅澤に強要されて「証言」(甲B8)に押印し
た、援護法の適用のために自決命令を作為した事実はない旨回答をした
(高裁の判断)
沖縄タイムスは、座間味村に対し、集団自決の認識を問う (高裁の判断)
18日 村長宮里正太郎は「部隊による『自決命令』は要請された」「遺族補償のため玉砕
命令を作為した事実はない。申請は生き残った者の証言に基き作成し、又村長の
責任によって申請したもので1人の援護主任が自分で勝手に作成できるものでは
ない」回答
(高裁の判断)
12月 22日 梅澤は、沖縄タイムスの新川明に対しては、「彼(宮村幸延)が私に『本当に梅澤さ
ん、ありがとうございました。申し訳ございません』とこうやってね、手をこうやってね、
謝りながら書いたんですよ。『これはしかし梅澤さん、公表せんでほしい』と言った。
私はそれについては『これは私にとっては大事なもんだと』と。公表しないなんて私
は言っておりませんよ。内地の人に見せるぐらいは、しらせたいというのが私の気持
ちだから。」「この「証言」作成後2年足らずの時点で新川明に語った作成状況と控
訴人梅澤の陳述書の内容は全く異なっており、控訴人梅澤の陳述書の記載に疑
問を抱かせる」
(高裁の判断)
梅澤の陳述書(「上記(11月1日)回答ということで、沖縄タイムス社大阪支社で会
談。沖縄タイムス社は前回の時の態度を一変させ、『村当局が座間味島の集団自
決は軍命令としている』と主張して私の言い分を頑として受け入れませんでした」→
態度を一転させた場合、前回の謝罪行為を取り上げて、新川明を批判するのが合
理的。それがない。)
(高裁の判断)
梅澤の陳述書(梅澤は、「日本軍がやらんでもええ戦をして、領土においてあれだ
けの迷惑を住民にかけたということは、これは歴史の汚点ですわ」「座間味の見解
を撤回させられたら、それについてですね、タイムスのほうもまた検討するとおっし
ゃるが、わたしはそんなことはしません。・・ですから、もう私は、この問題に関して
一切やめます。もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない以上です」と述
べて、沖縄タイムスとの交渉を打ち切っている。→昭和63年11月1日のやりとりが
沖縄タイムスとの間であったとすれば名誉を著しく毀損している「鉄の暴風」への追
及をやめることは不合理
(高裁の判断)
平成元(1989)年
12月 27日 大阪地裁判決(死者に対する名誉毀損行為が遺族に対する不法行為として一般
私法上の救済の対象となり得る)
(控訴人の主張)
    「座間味村史下巻」発行(秀幸の母宮平貞子の手記「26日夜明けに自分の壕に
戻った、この間3男(秀幸)は、租父母の手を引くようにして歩いた」)→貞子の手記
では秀幸が本部壕に行ったり、忠魂碑前に行くことなどあり得ない。貞子の手記は、
今回の秀幸新証言がなされる前の記録
(高裁の判断)
平成2(1990)年
3月   大江志乃夫著「花綵の海辺から」(赤松嘉次隊長が『自決命令』をださなかったの
はたぶん事実であろう)
(高裁の判断)
31日 「渡嘉敷村史」出版(自決命令明記、現在まで訂正されず) (被控訴人の主張)
平成4(1992)年
    宮平秀幸のビデオドキュメント「戦争を教えてください・沖縄編」で自分の戦争体験
を詳細に語る(「本部付き伝令として隊長の傍らにいた」、「梅澤隊長が自決するな
と命じた」、「野村村長が忠魂碑前でそれを伝えて解散を命じた」などということは
全く出ていない)
(高裁の判断)
    拓殖大学藤岡信勝教授の意見書(村長の妻が秀幸に真実を語らせないように秀幸
の母貞子に圧力をかけ貞子と秀幸の妻がつきっきりで撮影されたため、秀幸は真
実を語ることが出来なかったものであると詳細に解説」→宮城晴美の陳述書(貞子
は遅くとも平成3年からは病気療養のため、ビデオ撮影に立ち合うはずもない)
(高裁の判断)
平成5(1993)年
3月 22日 沖縄県警本部「沖縄県警察史 第2巻」(安里巡査の供述「部隊長の所へ伝令を出
した。だがその伝令が帰って来ないうちに住民が避難している近く(で)急に撃ち合
いが激しくなった。友軍の総攻撃が始まったものと勘違いして、防衛隊員の手榴弾
を使って玉砕した)
(高裁の判断)
6月 1日 「沖縄戦ショウダウン」は13回にわたって琉球新報に連載の上原正稔のコラム 事実関係
平成9(1997)年
8月 29日 家永教科書裁判第3次訴訟、上告審判決。「沖縄戦」(原告の訴えを却下) 「Will」8月号
最高裁判決(「本件検定当時(昭和58年)の学界の一般的な見解も日本軍による住
民殺害と集団自決とは異なる特徴的事象としてとらえていたことは明らかである」)
(高裁の判断)
9月 9日 最高裁判決(事実が真実の証明がなくても、事実を真実と信ずる相当の理由があれ
ば、その故意又は過失が否定され、不法行為は成立せず)
(高裁の判断)
平成12(2000)年
9月 1日 正論9月号(曽野綾子、自決命令説を否定) 事実関係
12月 6日 宮城証人の「母の遺したもの」出版 事実関係
「軍命令はなかった」と証言し沖縄で非難を浴びていた宮城初枝の娘・宮城晴美が
『母の遺したもの』(高文研)出版
「Will」8月号
平成13(2001)年
3月 1日 宮城証人の「母の遺したもの」が第22回沖縄タイムス出版文化賞を受賞→梅澤命
令説が虚偽であることが広く知られるようになった
(控訴人の主張)
平成14(2002)年
7月 16日 「太平洋戦争 第2版」が文庫化され、合計1万1000部が発行 事実関係
「太平洋戦争 第2版」を文庫化(自決命令の記述は削除)→自決命令を虚偽であ
ると認識していた証左
(控訴人の主張)
「母の遺したもの」の出版により「太平洋戦争 第2版」の文庫化は不法行為が成立 (控訴人の主張)
平成15(2003)年
    曽野綾子は「正論」でも、「ある神話の背景」に示した見解を維持 (高裁の判断)
平成17(2005)年
8月 5日 梅澤裕らが大江健三郎と岩波書店を大阪地方裁判所に提訴(大江・岩波裁判) 「Will」8月号
23日 東京地裁判決(「百人斬り訴訟判決基準」)は、「刑法上死者に対する名誉毀損罪
の構成要件が「虚偽の事実を摘示」することとされていることとも齟齬する」
(控訴人の主張)
27日 産経新聞が元琉球政府関係者の照屋昇雄の軍命令を否定する証言を報じる 「Will」8月号
12月 1日 「WILL」12月号(皆本証人は自決命令を否定) (高裁の判断)
平成18(2006)年
1月 1日 曽野綾子は「沈船検死」でも「ある神話の背景」に示した見解を維持 (高裁の判断)
5月 24日 東京高裁判決(故人の遺族の敬愛追慕の情を受忍しがたい程度に害する場合、
当該行為についての不法行為の成立を認める)
(高裁の判断)
6月 13日 平成18年度教科書検定について、両村や沖縄県議会などが、文部科学省に対し、
検定意見の撤回を求める意見書を提出→布村審議官は、「軍の関与、責任は確
かにある、部隊長による直接の命令があったかどうかは断定できないとの意見で審
議会の委員の意見が一致した、検定意見の撤回は困難」
(高裁の判断)
8月 26日 原審第9回口頭弁論期日に提出された陳述書(被控訴人らからの反論を踏まえて
検討して書かれたものであるにもかかわらず、前記新川明との対談の経緯等は、
録音内容に照らして措信しがたく、この陳述書全体の信用性を減殺)(梅澤の陳述
書・本人尋問の結果は到底採用できない)
(高裁の判断)
27日 産経新聞朝刊・「日本文化チャンネル桜」(照屋昇雄「赤松大尉に軍命令を依頼
し、了解を得て、偽の軍命令の文書を作成→サインと押印を得て、厚生省に提出」)
→(赤松大尉の生前の行動と明らかに矛盾)
(高裁の判断)
産経新聞夕刊(琉球政府社会局援護課・照屋昇雄「遺族たちに援護法を適用す
るため、軍命令ということにし、自分たちで書類を作り、その書類を当時の厚生省
に提出」)
(高裁の判断)
10月   「秘録 沖縄戦記」の復刻版を出版(自決命令削除)→史実の検証に耐えられな
くなった証拠
(控訴人の主張)
6日 沖縄タイムスが「米公文書に『軍命』」の見出し。林博史(関東学院大学)が米公文
書館で「米軍が上陸してきたら自決せよ」との軍命があったとする記録を発見。しか
し「命令に相当する(command)、(order)などの単語はなく、林氏は(tell)を命令と
翻訳している
「Will」8月号
11月 1日 「正論」11月号・「日本文化チャンネル桜」(照屋昇雄は、援護法を適用するため、
軍命令とし、その書類を当時の厚生省に提出」)
(高裁の判断)
「正論」11月号(金城武徳は「集団自決は軍の自決命令でない」) (高裁の判断)
12月 27日 被控訴人ら代理人である近藤卓司弁護士は、厚生労働大臣に対し、産経新聞(平
成18年8月)に掲載された「沖縄県渡嘉敷村の集団自決について、戦傷病者戦没
者遺族等援護法を適用するために、照屋昇雄氏らが作成して厚生省に提出したと
する書類」の開示を求めた
(高裁の判断)
28日 「週刊新潮」の櫻井よしこのコラム(梅澤に対する取材や前記神戸新聞の記事等
に基づく見解にとどまり、控訴人梅澤に対する取材を除き、櫻井よしこが生き残っ
た住民等からの聞き取りを行ったものとまでは認められない)
(高裁の判断)
櫻井よしこの週刊新潮のコラム(櫻井よしこが生き残った住民等からの聞き取りを
行ったものとまでは認められないから、梅澤の供述等が措信し難い以上、その資
料的価値は乏しい)
(高裁の判断)
平成19(2007)年
    曽野綾子は、「Voice」でも、「ある神話の背景」に示した見解を維持 (高裁の判断)
1月 15日 沖縄タイムス朝刊(援護担当・た小嶺幸信は「『集団自決』の犠牲者を申請するとき、
特に認定が難しかったという記憶はない」。社会局援護課の職員・金城見好も、「2、
3カ月後の認定は早い」「慶良間諸島は、当初から戦闘状況が分かっており、『準軍
属』として処遇することがはっきりしていた」
(高裁の判断)
24日 厚生労働大臣は、「開示請求に係る文書はこれを保有していないため不開示」との
理由で、当該文書の不開示の通知
(高裁の判断)
3月 30日 高校教科書検定で「集団自決」について「軍の強制」という表現を削除 「Will」8月号
平成18年度検定の集団自決が軍の強制や命令によるものとする断定的な記載は
認めないとの判断は、その後の教科書発行者らによる教科書訂正申請によっても、
揺らぐことなく堅持
(被控訴人の主張)
平成18年度教科書検定(日本軍による自決命令や強要が通説となってい
るが、近年の状況を踏まえると命令があったか明らかではない旨の検定意
見を付した)
(高裁の判断)
4月 4日 琉球新報(金城証人は、家永第3次訴訟第1審と同様の証言) (高裁の判断)
11日 銭谷眞美文科省初等中等教育局長は、衆議院文部科学委員会において、「日本
軍の隊長が住民に対し自決命令を出したとするのが従来の通説であった、前記検
定意見は、この通説について当時の関係者から色々な供述、意見が出ていること
を踏まえて、軍の命令の有無についてはいずれとも断定できないとの趣旨で付した
ものであり、日本軍の関与を否定するものではない」
(高裁の判断)
伊吹文明文部科学大臣は、前記委員会において、「前記検定意見について、日本
軍の強制があった部分もあるかもしれない、当然あったかもしれない、なかったとは
言っていない」
(高裁の判断)
24日 布村幸彦文部科学省大臣官房審議官は、決算行政監視委員会第1分科会におい
て、「隊長が住民に対し自決命令を出したとするのが通説」
(高裁の判断)
7月 27日 大江・岩波裁判、第1回口頭弁論 証人尋問:皆本義博、知念朝睦、宮城晴美(宮
城晴美は「軍命令があった」と証言。「一カ月前に考えを改めた」と話し、深見裁判
長から「本当にその証言でいいのか」と質された)
「Will」8月号
9月 10日 期日外の証人尋問・金城重明(福岡高裁那覇支部で実施・非公開) 「Will」8月号
29日 産経記事(平成18年8月)の記事を知るところであろうが、控訴人赤松の陳述書や
本人尋問にも照屋昇雄証言は全く出てこない
(高裁の判断)
宜野湾市で「教科書検定意見撤回を求める県民大会」 「Will」8月号
30日 沖縄タイムス、琉球新報、朝日新聞等が県民大会参加人数を主催者発表として「11
万人参加」と報じる。のちに空撮写真から参加人数は2万人弱と判明
「Will」8月号
10月 6日 佐藤加代子(赤松大尉の娘)の陳述書(父は希代の悪人とされながらも耐えていた)
→偽の軍命令が事実なら赤松家の苦悩はあリ得ない
(高裁の判断)
23日 曽野綾子は、産経新聞でも、「ある神話の背景」に示した見解を維持 (高裁の判断)
11月   平成18年度教科書検定を受けた高等学校日本史教科書の沖縄戦の記載で承認
が適当とされた教科書の記載訂正文(「軍・官・民一体の戦時体制のなかで、捕虜
になることは恥であり、米軍の捕虜になって悲惨な目にあうよりは自決せよ、と教育
や宣伝を受けてきた住民のなかには、日本軍の関与のもと、配付された手榴弾な
どを用いた集団自決に追い込まれた人々もいた」)
(高裁の判断)
9日 大江・岩波裁判、第11回口頭弁論 当事者尋問:梅澤裕、赤松秀一、大江健三郎 「Will」8月号
12月 26日 文部科学省の立場(曖昧な軍の関与の記述は許容するが、直接的な軍の命令ない
し強制と読める記述は許容しておらず、検定意見の立場は一貫)
(控訴人の主張)
27日 沖縄タイムス、「教科書訂正 ”再検定”で軍強制復活」と報じる 「Will」8月号
平成20(2008)年
1月 1日 曽野綾子は、「WILL」1月号でも、「ある神話の背景」に示した見解を維持 (高裁の判断)
「世界 臨時増刊 沖縄戦と『集団自決』」(宮里育江氏(83歳)は『(米軍上陸に際
して)1ヵ所に集まれと伝令が来たとき、それはもう皆で一緒に『死ね』と軍から言わ
れたものだと感じた』という」
(高裁の判断)
26日 撮影のDVD映像(宮平秀幸証言)(梅澤隊長は、「あんた方が武器弾薬、毒薬を
下さいと言っても、それは絶対に渡せない。そうした命令は絶対にないから解散さ
せろ」と命令)→上記秀幸新証言は、同人自身の過去に話していたことと明らかに
矛盾→秀幸新証言は明らかに虚言
(高裁の判断)
  宮城晴美が『母の遺したもの』新版で、物故した母親の証言を改変 「Will」8月号
3月 28日 大江・岩波裁判、判決言い渡し。原告の請求棄却。ただし「赤松隊長令至は確認
視されている
「Will」8月号
29日 朝日新聞が社説で「集団自決判決 司法も認めた軍の関与」「集団自決に日本軍
が深くかかわったという事実はもはや動かしようがない」と論点をすりかえて掲載
「Will」8月号
4月 2日 控訴人側が高裁に控訴 「Will」8月号
5月 7日 「沖縄ノート」が第59刷まで増刷(合計30数万部が発行) 事実関係
6月 1日 正論6月号(控訴人らは、当審で、書類の保存期間満了による廃棄等の可能性主
張し、正論の論考を提出するが、事務取扱規程等の裏付けも全くない話であり、採
用できない)(照屋昇雄の話は全く信用できず、これに追随し、喧伝するにすぎな
い産経新聞の記事や「日本文化チャンネル桜」の報告も採用できない)
(高裁の判断)
6日 垣花武一作成の陳述書「昭和20年2月ころ、村の3役から要職者を集め、米軍上
陸時、住民を玉砕させるよう軍から命令されたと聞く」
(高裁の判断)
10月 31日 大阪高裁、地裁判決を支持して控訴を棄却 事実関係