私は、大学時代に、松島栄一氏の『忠臣蔵』(岩波新書)に出会う
アンチ『忠臣蔵』から実証主義的『忠臣蔵』ファンへ
 井沢元彦氏の忠臣蔵以外の説には、コメントできません。コメントする史料がないからです。
 しかし、大学時代、松島栄一氏の『忠臣蔵』に出会いました。松島氏は、「忠臣蔵は史料のみでも日本思想史」という持論を展開されていました。それ以来、忠臣蔵に関しては、史料のみならず、史跡・新聞・雑誌などの資料を読破しました。
 井沢元彦氏以上の知識は、『忠臣蔵』に関しては持っていると自負しています。
 そういう私からすれば、井沢氏の史料の扱いは、同じ史料でも、自分の都合のいい部分は提示するが、都合の悪い部分は排除して、自説を主張していることが簡単に判読できます。

井沢氏の史料(『梶川氏筆記』)の扱い方
都合のいい部分をつまみ食い、不利な部分は排除
 井沢氏は、浅野内匠頭を「卑怯でドジな男」という結論を持っています。
 そこで、たくさんある史料より次のような史料を切り取ります(『梶川氏筆記』)
A「誰やらん吉良殿の後より、此間の遺恨覚たるかと声を懸@切付申候…上野介殿是ハとて後の方江ふりむき被申候処を又A切付られ候故我等方へ向きて逃げんとせられし處をB二太刀ほど切られ申候」
*解説(一般の人は、このような専門的な『梶川氏筆記』から、上記のような一次史料を提示されると、「さすがは井沢さんや」と思うでしょう。
 以前は、史料は、個人レベルでは、入手できず、一部の大学・専門家が情報(史料など)を独占していました。
 しかし、『梶川氏筆記』は『赤穂義人纂書』(赤穂義士史料大成第2)に収録されており、日本シエル出版から刊行されております。現在は、古書店でなければ入手できませんが、大きな図書館では誰でも閲覧できます。
 つまり、情報(史料など)が大衆化されたため、評価の競争化が進み、怠惰な専門家の牙城は崩壊しています。
 井沢氏の史料引用も、『梶川氏筆記』の前半部分の自分の結論に都合のいい部分をつまみ食いし、不都合な部分を排除していることが、簡単に分ります)

井沢氏はつまみ食いした史料を駆使
井沢氏が誘導した結論は?
「浅野内匠頭は卑怯でドジな男であった!!」
 井沢氏は、卑怯でドジな浅野内匠頭を描くために、「吉良殿の後より…@切付申候…後の方江ふりむき被申候処を又A切付られ候…逃げんとせられし處を又B二太刀ほど切られ申候」という史料をつまみ食いします。
 そして、次のような結論を読者に誘導します。そして、さらなる結論へ向かわせます。
B「浅野は壮年、吉良は老人である。その老人を浅野は卑怯にも背後から不意討ちした。…しかも合計四回も斬りつけ…殺すことが出来なかった…ダメなヤツということになる」
 「この「卑怯でドジな男」を「善玉」にするには、どう「演出」すればいいか?…過去に「忠臣蔵(という虚構)」を演出してきた…浅野は正々堂々と「吉良待て」と声をかけてから、正面から一太刀浴びせるのである」
*解説(『梶川氏筆記』のAの史料から、多くの人は、「此間の遺恨覚たるか」という部分を重要視しています。
 しかし、井沢氏は、『梶川氏筆記』からBで見るように、浅野内匠頭が、老人の吉良上野介を卑怯にも後から不意打ちした、しかも4回も切りつけたということを指摘して、卑怯でダメでドジな浅野内匠頭を描き出します。
 私も含め、多くの人は、病気とはいえ、お城経営をおっぽり出した(敵前逃亡した)浅野内匠頭を短気で思慮浅い人物と思っても、善玉にしている人はいません。悪玉を善玉にしたいシナリオを描く井沢元彦氏の忠臣蔵錯覚なのでしょう)

井沢氏の手法の破綻
井沢氏は「老人を卑怯にも後から4回不意打ちした」ことに執着
研究者は「此間の遺恨覚たるか」に執着
『梶川氏筆記』は新旧2つあった!
 井沢氏の手法は、結論が偏見に基づいており、方法が非科学的なために、直ぐ破綻します。
 井沢氏は、浅野内匠頭を「卑怯でドジな男」という史料が欲しいために、上記の史料の「吉良殿の後より…@切付申候…後の方江ふりむき被申候処を又A切付られ候…逃げんとせられし處を又B二太刀ほど切られ申候」の部分をつまみ食いしました。
 しかし、専門家の間では、井沢氏が無視した「此間の遺恨覚たるか」という内容を重視します。遺恨が事実なら、逆上して、後から切りつけることも想像できます。当時の社会では、「遺恨の内容によって、武士はどうあるべきか」という慣習が注目されるからです。
 そこで、専門家は、史料を実証的帰納法で比較・検討しました。その結果、最初の『梶川氏筆記』日記には、「吉良殿後より内匠殿声かけ切り付け申され候」と表現されていることが分りました。
 井沢氏が採用した史料は、正式には『梶川氏筆記丁未雑記』という標題で、事件より26年後の1727年に書かれたものです。そこには、確かに「吉良殿の後より此間の遺恨覚たるかと声を懸切付申候」とあります。
 「声かけ」と「此間の遺恨覚たるかと声を懸」では、大きな差があります。「声かけ」は、力仕事をするときの「ヤーッ」とか「エイッ」・「この野郎」などです。しかし、「此間の遺恨覚たるか」となると、「この前の恨みを覚えているか」ということで、上野介に対して恨みを晴らしたい一心だったことになります。

当時の生き方・考え方を知らずして、歴史上の人物を語るなかれ
「武士道と云は、死ぬここと見付けたり」が当時の慣習
「死を堵する」のは恥辱を晴らす時
井沢氏の結論(卑怯でドジな浅野内匠頭)は破綻
 東京大学の史料編纂所教授の山本博文氏は、『忠臣蔵のことが面白いほどわかる本』(中経出版)の中で「歴史上の人物の行動は、その時代の社会観念や道徳を下敷きにして見ていかなければならない」(174P)と書いて、今の資本主義社会の観念や道徳で歴史上の人物を評価してはいけないと、厳しく指摘しています。
 では、当時の武士の生き方・考え方とはどういうものだったのでしょうか。
 「武士道と云は、死ぬここと見付けたり」は、山本常朝の言葉を集めた『葉隠』の一説です。山本常朝は万治2(1659)年に生まれ、享保4(1719)年に亡くなっています。浅野内匠頭は寛文7(1667)年に生まれ、元禄14(1701)年に亡くなっています。大石内蔵助は万治2(1659)年に生まれ、元禄16(1703)年に亡くなっています。この3人は江戸の同じ頃の空気を吸っていたといえます。
 当時、武士としての一番の屈辱は、「大義」を軽んじられたり、名誉を傷つけ、恥をかかされることです。この場合、武士は、死を賭して、大義や名誉の回復、恥辱を晴らすことが宿命だったのです。職を賭してと叫んだ者が、次の日には敵前逃亡(職場放棄)することとは、訳が違います。
 そこで、多くの研究者は、「声かけ」「此間の遺恨覚たるか」を必死で検証したのです。当然のことです。
 しかし、井沢氏は、後から、不意打ちに、しかも4回切りつけたら卑怯者であるという現在の「社会観念や道徳」をもとに浅野内匠頭を冷笑しているのです。とても真摯な実証主義者のする立場ではありません。
 こうして、井沢氏の「卑怯でドジな浅野内匠頭」という結論は破綻したのです。

井沢氏、『梶川氏筆記』を利用
しかし、同じ『梶川氏筆記』で、井沢氏は墓穴
歴史修正主義者である井沢氏の面目躍如
 そういう意味で、研究者が注目し、井沢氏が排除している『梶川氏筆記』があります。
 井沢氏が採用した『梶川氏筆記』は、『赤穂義人纂書』(赤穂義士史料大成第2)の275Pを引用しています。
 前半は、上記の史料です。
 その後半には、C「内匠殿をハ大広間の後の方へ何も大勢にて取かこみ参り申候、其節内匠殿被申候は、上野介事此間中意趣有之候故殿中と申今日の事旁恐入候得共不及申是非打果候由の事を、大広間より柳の間溜御廊下杉戸の外迄の内に、幾度も繰返■被申候、其節の事にてせき被申候故殊の外大音にて有之候、高家衆はしめ取かこみ参候中最早事済候間たまり被申候へ、余り高声にていかゝと被申候へハ其後は不被申候」とあります。
 幕府の役人が、尋問不足で、刃傷の背景を解きほぐしていません。しかし、井沢氏が浅野内匠頭を卑怯者として引用した『梶川氏筆記』には、「意趣有之候」という記述があったのです。
 井沢氏も引用している野口武彦氏の『忠臣蔵−赤穂事件・史実の肉声』では、「(丁未とは1727年である)後者は事件のだいぶあとになってから、梶川氏が自分の記憶を整理するかっこうでつづったものではないか」「梶川が改筆の段階で内匠頭の一言を明瞭に思い出したか、意味不明の怒号だったが後で思えばこう言っていたにちがいないと確信したかのどちらかである。拉致される内匠頭はそればかりを叫び続けていたのだから」と書かれています。
 つまり、梶川与惣兵衛が吉良上野介と話し合っているときに、上野介の背後から「わめき声」をあげて、切りかかった者がいた。誰かと見れば、浅野内匠頭であった。
(1)その後、梶川は、浅野内匠頭は「この前の恨みを覚えているか」と言っていたのを、はっきりと思い出して、改定した。
(2)その後、梶川は、よく考えてみると、浅野内匠頭は「この前の恨みを覚えているか」と言ったに違いないと、確信して改定した。
*解説(『梶川氏筆記』だけを信ずれば、浅野内匠頭は吉良上野介に恨みを抱いていたことになります。恨みの内容は不明ですが、当時の社会観念からすれば、辱めを受けた場合、死を賭して、それを晴らすのが武士道だったのです。しかし、死を賭したにも関わらず、目的を達することが出来なかった浅野内匠頭は、「ドジな男」と非難されても仕方がありません。
 同時に、切りかかられて、逃げて生き延びた吉良上野介は、腰抜けと見られて嘲笑の対象となったのも事実です。
 武断政治から文治政治への移行期に起きた悲劇だったかも知れません。
 井沢氏が指摘するように、悪玉を善玉にする逆説は、残念ながら、全く必要がなかったのです)

*注:野口武彦氏は「(丁未とは1727年である)…」としてます。
 これは、向山誠斎の書いた「丁未雑記」に載っている「梶川氏筆記」のことだとすれば、向山誠斎の「丁未」とは弘化4(1847)年のことです。文庫本化にあたり訂正されるでしょう。
 一応、野口氏の文章を引用していますので、ここでは、注記を設けました。

吉良上野介の治療に立ち会った栗崎道有の記録こそ貴重な第一次史料
これを知らない人を無知といいます
これを意図的に排除した人を悪意といいます
 次に、井沢氏が排除した史料に、浅野内匠頭が乱心であったか、乱心でなかったかを示す重要な第一次史料があります。吉良上野介の怪我を治療した医者の栗崎道有の記録です。この史料を知らない人は無知であり、意図的に排除しているならば悪意としか考えられません。
 下記に重要な部分の全文を紹介します。
  刃傷事件の最初のうち、老中は「浅野内匠頭が乱心して、吉良上野介に切りつけた」と解釈し、公傷扱いで上野介を治療しすることになりました。しかし、公家衆の指示した役人(内科の津軽意三、外科の坂本養慶)なので上野介の血も止まらず、元気も弱く見えました。
 そこで道有を呼んで治療するようにという指図が大目付の仙石伯耆守にありました。そこで私が治療している最中のことでした。内匠頭の口上の意図をお聞きになった所、「乱心ではない。何とも堪忍できない手合わせ故に、勅使接待という場を穢し、迷惑をかけたお掛けしたことは申し上げようもありません」という訳でした。とても乱心とは見えませんでした
 他方、吉良上野介に「内匠頭から意旨を受ける覚はあるか」と尋問すると、上野介は「そのような覚はない」と答えました。
 幕府(大目付仙石伯耆守)は、この両者の尋問聴取から「乱心ではない」ので、「乱気による処置」、すなわち公傷による治療をうち切ると私に伝えてきました。
 さっきは、幕府(大目付仙石伯耆守)より私たちに「吉良上野介を治要せよ」と命じられましたが、今度は「治療する必要には及ばない」と命じられました
 傍らにいた高家衆の1人である畠山上総守は、「しかし、上野介ならびに高家の同役衆は、栗崎道有がやって来て元気も回復し血も止めてくれたことでもあるので、上野介の願いもあり、高家衆も栗崎道有に治療を継続してお願いしたい」と申し出ました。大目付の仙石伯耆守は、「幕府の御典医ではあるが、その旨老中にもお伝えしよう」ということになりました。
 刃傷事件の4時間後(午後3時)、吉良上野介は、本宅に帰って行きました。
仕合(=手合せ。相手になって勝負をすること、勝敗を争うこと) 
史料
『栗崎道有記録』
 「手負初ノ内ハ御老中方ニてハ内匠頭乱心ニて吉良ヲ切ルノ沙汰、依之療治之儀吉良ハ 公家衆へ何角指行ノ役人ナレハ血モ不止元気モヨハク見ル、然ハ道有ヲ呼上ケ療治被 仰付之沙汰ト相聞ヘ、然所ニ其中ケ場ヘナリテ内匠口上之趣ヲ御聞被成候所ニ、乱心ニアラス即座ニ何トモカンニンノ不成仕合故 御座席ヲ穢カシ無調法ノ段可申上様無之ノ訳ケニテ中々乱気ニ見ヘス、扨吉良へ御尋有之ハ兼而意旨覚有之カトノ事、吉良ハ曽而意旨覚無之トノ事ナリ、依之テ乱気ノ沙汰ニ不及ニ付」(中略)

 先刻ハ公儀より我等へ吉良療治被仰付之沙汰ニ有之処ニ、只今ハ療治被仰付之沙汰ニハ不及之由、併上野介并ニ同役衆幸道有罷出元気ヲモツヨメ血モ止メ置タル事ナレハ、病人ノ願同役中道有外治ニモ被致度トノ事ニ候ハゝ其段御老中へも可申上候

 其刻限早八半過七前ニ…吉良ノ本宅へ罷帰ル(後略)」

 申し遅れましたが、井沢元彦氏は「新しい歴史教科書をつくる会」の会員でした。