井沢元彦氏が信奉する大石慎三郎氏の手法を検証
 井沢元彦氏は、松島榮一氏ら歴史学者を「忠臣蔵錯覚に洗脳された」とか「学者なんだから、もう少し厳密に史料を見なさいよ」と激しく中傷・誹謗しているのに、大石慎三郎氏の説には全幅の信頼をおいています。この落差は何だろうと不思議に思います。

大石慎三郎氏が使った『土芥寇讎記』(1)
(1)アンチ派が使う部分をつまみ食い、「なんだこりゃ!!」
(2)「内匠頭は政治に無関心で女好き」(アンチ派の殺し文句)
(3)「長矩は…統治がいいので、家臣も百姓も豊である」もあるぞ!
(1)井沢氏は、『土芥寇讎記』について、次の様に書いています。
 『土芥寇讎記』という元禄三年(1690)現在の全国各地の大名の「紳士録」というべき史料がある。
 この中に浅野長矩は「女好きの暗君」として登場する。もっとも、この史料は編者不明ながら公刊されたものであるから、何らかの調査に基づくものであることは確かだが「正しい」という証拠もない。ただ一つ言えることは、発刊が「刃傷事件」の前であって、「忠臣蔵」の影響は受けていない、ということだ。
*解説1:「一応正しいという証拠はない」と断ってはいますが、アンチ派の言い分のみを採用しています。出所は、井沢氏が信奉する大石慎三郎氏の著書です。
(2)大石慎三郎氏は、『土芥寇讎記』を使って、浅野内匠頭を「面白いことに、事件の起きる十年ほど前に幕府によって作られた『土芥寇讎記』(幕府隠密を使って全国の大名の素行と領地の実態を調査したもの)を見ても、赤穂藩の浅野長矩の評価は最も低い部類に属する。無類の女好きで政治に興味を示さず、いい女を紹介すれば必ず出世させてくれる殿様という、惨憺たる評価を幕府の隠密から受けているのである」(『将軍と側用人の政治』(71〜71P)。
*解説2:実は、私もアンチ忠臣蔵時代に、アンチ派から受け売りした「浅野内匠頭は政治に無関心で女好き」を喧伝していました。その根拠はと問われると、『土芥寇讎記』に書いているというと、相手は「シュン」となったものです。史料を入手できない当時、史料を示して、攻撃すれば、史料を持たない相手は太刀打ち出来ないという手法を学びました。 
*解説3:ネット社会以前なら、上の手法は有効です。『土芥寇讎記』は、現在絶版です。
 しかし、ネット社会の現在、史料は簡単に入手できます。私がよくお世話になる「長蘿堂」さんのホームページには原文があるのです。皆さんもびっくりされると思います。大石慎三郎氏が使った史料はその後半で、使わなかった前半(史料(1))には「長矩は智恵があって賢い。家臣や領民へ統治がいいので、家臣も百姓も豊である」とあるのです。
 松島榮一氏と出会うまで、私はアンチ派から大石慎三郎氏と同じ手法の手ほどきを受けていたのです。ショック!
 「もうお分かりになったでしょう」、井沢氏の手法や意図が…。
 史料は、自分にとって有利・不利に関係なく提示し、不利な史料を超克して、自分の結論に導くものです。
 世継のない場合、御家は断絶の大名にとって、むしろ、無類の女好きは、エネルギッシュな証拠です。残念なことに、実際の浅野内匠頭は病弱で、そのエネルギーがなかったのです。
史料(1)
 「長矩、智有テ利発也。家民ノ仕置モヨロシキ故ニ、士モ百姓モ豊也」

大石慎三郎氏、『栗崎道有日記』に「浅野と吉良は普段から相性が悪かった」(3)
(1)一方的に断罪する立場に、「なんだこりゃ!!」
(2)上下関係の間柄で不仲は、下の者が損、ゴマすらにゃ
(3)我慢・ゴマする限度を越えていた場合はどうする?
(4)これって、「喧嘩」していたという傍証にはなりませんか
(3)大石慎三郎氏は、「栗崎道有という幕府お抱えの外科医で、事件当日に吉良義央の治療した人物が残した手記に、浅野長矩と吉良義央は普段から相性が悪かったとある。また、浅野が大変な癇癪持ちだとも書いている。殿中の医者がそう書くということは、それは江戸殿中の、特にお坊主連中の共通の認識だったということである」(『将軍と側用人の政治』70P)と書いています。
 史料(2)がその口語訳です。
*解説5:小見出しが「作られた”義士”たち」とありますから、浅野側に「よい意味」で書かれたのでないことは確かです。普通、上下関係の間柄で、相性が悪かった場合、下の者が不利なのは明白です。不利であっても、吉良に頭を下げなかった内匠頭に問題があることは当然です。しかし、その限度を越えていたという考えも成り立ちます。
 つまり、これって、吉良と浅野は「喧嘩」していたという傍証にはなりませんか。
 史料(2)の口語訳です。
 「年始の公家衆の御地(馳)走人の浅野内匠頭は、松平安芸守殿(広島藩主浅野綱長)家の分家で高は5万石かと言われています。
 以前より、吉良との儀礼的な挨拶がよくありません。特に、度々、伝奏屋敷でも吉良は高家の長老格の人で、内匠殿は年も若く、もちろん公家衆などへの挨拶なども今だ未経験と言うこともあり、吉良を頼みにするといえども、兎角吉良は何となく厳(いか)しく感じられて、内匠頭はかねがね、思うこともありました」
史料(2)
 年始公家衆御地(馳)走人浅野内匠頭、松平安芸守殿(広島藩主浅野綱長)家ノワカレ高五万石カ兼而吉良トアイサツ不宜、殊ニ度々伝奏屋敷ニても吉良ハ高家年老ノ人ニて、内匠殿ハ年若、尤公家衆抔へ挨拶等モイマタウイシキニヨリ吉良ヲ相頼ルトイヘトモ、トカク吉良何トヤランイカメシク内匠兼々存シヨラル

大石慎三郎氏は「吉右衛門は忠左衛門お抱えの足軽だった」(4)
(1)史料には「内匠頭長矩の臣寺坂吉右衛門信行」、「なんだこりゃ!!」
(2)この史料を八木神大名誉教授は「寺坂本人が書いた」と証言
 1980(昭和55)年に発行された『歴史への招待』「四十七人目の義士」(NHK出版)という書物があります。
 その中で、「吉右衛門は吉田忠左衛門お抱えの足軽ということなんですね」という質問に対して、大石慎三郎氏は、「そうです。…彼は軍役表によりますと、5人の人を抱えていたということになるわけなんですね。…吉右衛門はこの中の1人ということになります」。
 付表として「四十七番目の義士<年表>」があります。概略を記します(参考資料(1))。
 大石慎三郎氏は、「吉右衛門足軽組に入る」部分をそのまま、吉田忠左衛門の足軽になったように解釈されています。そのこと(吉右衛門は浅野内匠頭の陪臣)を逐電の理由としています。今から28年前の説です。
 井沢元彦氏も、「寺坂はそもそも浅野のためでなく、自分の主人である吉田忠左衛門の行末を見届けるために討ち入りに参加した。しかし主人(忠左衛門)が本懐を遂げたので、これで役目は果たしたと姿を消したー」と書いています(127P)。
 井沢氏は、他の46人を正社員とし、寺坂を「正社員吉田忠左衛門」の「個人的使用人」と解釈しています(127P)が、これは、全く、忠臣蔵の基本的知識が欠如しているといえるでしょう。

 しかし、神戸大学名誉教授だった八木哲浩氏は、史料(3)の『寺坂信行筆記』については、”討ち入り部分は寺坂本人が書いたと思われる”とし、史料(4)の『寺坂信行自記』については、”叙述が討入り前で終わっているので、寺坂本人が書いたと思われる”と指摘しています。
 その根本史料には、「吉田忠左衛門兼亮組」と「浅野内匠頭長矩の臣寺坂吉右衛門信行」とがあります。大石慎三郎氏は、「長矩の臣寺坂」という史料を見落とし、「組」を配下と解釈したのでしょう。
 私も、寺坂吉右衛門を紹介するとき、赤穂市の市史編纂室の担当者に問い合わせました。はっきりと「寺坂吉右衛門は浅野家の家臣です」と回答しています。
 中央義士会の中島康夫会長も「寺坂吉右衛門は8歳の時、吉田忠左衛門に仕えるようになった。…このときは吉田の直臣であり、浅野内匠頭からすれば陪臣であった。…ところが、寺坂が27歳のとき(*作者注:元禄4年)、吉田の推挙をうけ、赤穂浅野家の足軽として取り立てられた」と指摘しています。

参考資料(1)
 寛文12(1672)年、寺坂、吉田忠左衛門の世話になる(8歳)
 元禄4(1691)年、吉田忠左衛門、加東郡郡代となり穂積にて勤任す この時、吉右衛門足軽組に入る(5石2人扶持)
史料(3)
 浅野内匠頭家士吉田忠左衛門兼亮組
     足軽 寺坂吉右衛門信行(『寺坂信行筆記』)
史料(4)
 此壱巻は浅野内匠頭長矩の臣寺坂吉右衛門信行元録(禄)十四十五年之始終をこまかに自筆をもつて書残せし(国立国会図書館所蔵『寺坂信行自記』)

大石慎三郎氏の得意な手法「ところが世間が」(5)
(1)なぜだか悪い方に同情、「なんだこりゃ!!」
(2)「なぜだか」を究明するのが学者ではありませんか
(3)私の知っている大石教授はどこへ行ってしまわれたのか?
(4)それとも「旧説」を持ち出されて迷惑している大石教授?
 「もう少し厳密に史料を見なさいよ」と学者を非難する井沢氏が、「なぜだか」、大石教授の史・資料のみは、検証もせずに4回も引用しています。
(1)『土芥寇讎記』(2)「松の廊下では100%ない」(3)内匠頭の乱心説(4)「寺坂吉右衛門陪臣説」
(5)「なぜだか」論法は、「なぜだか」井沢氏は排除しています。
 「最近、昔の説を持ち出されて、迷惑されているのは、大石慎三郎氏ではないか」と同情するのは私だけ?
 その一部を参考資料として、再掲載します。
参考資料(2)
 旧赤穂藩の浪士四十七人が吉良義央の屋敷に討ち入りをかけ、義央の首を取ってしまう。これはどう考えでも、赤穂浪士の側が一方的に悪い。幕府も彼らを夜盗のような者だとみなして、全員打ち首にせよという処分案がすぐに出てくる
 ところが世間が、なぜだか悪い方に同情を寄せ始めたため、処理が難しくなり、幕府内で侃々諤々の議論となった。

 申し遅れましたが、井沢元彦氏も大石慎三郎氏も「新しい歴史教科書をつくる会」の会員でした。