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「鑑真の渡来」

『唐大和上東征伝』
「日本国天平五年歳は癸酉に次る、沙門栄叡・普照等、遣唐大使丹比真人広成に随ひて唐国に至り、留りて学ぶ。…天平六載歳冬十月、時に大和上楊州大明寺にあり、衆のために律を講ず。 栄叡・普照師大明寺に至り、大和上の足下に頂礼し、具さに本意を述べて日く、『仏法東流して日本国に至る。其の法有りと雖も伝うる人無し。本国に昔聖徳太子有り。日く二百年の後、聖教日本に興らんと。今此の運に鍾る。願はくは和上、東遊して化を興せ』と。大和上答えて日く、『昔聞く。南岳恵思禅師、遷化の後、生を倭国の王子に託し、仏法を興隆し、衆生を済度すと。(中略)此を以て思量っっするに、誠に是れ仏法興隆有縁の国なり。今我が同法の衆中、誰か此の遠請に応え、日本国に向いて法を伝える者有らんか』と。時に衆黙然として一の対うる者無し。良久しくして僧祥彦有り。進みて日く。『彼の国は太遠く、性命存し難し。滄波□漫、百に一も至る無し(中略)』と。和上日く、『これ法事のためなり。何ぞ身命を惜しまん。諸人去らざれば、我すなわち去るのみ』と。祥彦日く。『和上若し去かば、祥彦も亦随いて去かん』と。
  …天平七載十月十六日…岸を去ること漸く遠く、風は急に波は峻く、水の黒きこと墨の如し。沸浪一たび透らば、高山に上がる如し。怒涛再び至らば、深谷に入るに似たり。人皆荒酔し、ただ観音を唱ふ。…舟上に水なし、米を嚼めども喉乾き、咽めども入らず、吐けども出でず、鹹水を飲めば腹すなわち脹れ、一生の辛苦、何ぞこれより劇しからん。…和上頻りに炎熱を経て、眼光暗昧たり。ここに胡人あり。能く目を治すといふ。遂に療治を加ふるも、眼遂に失明せり。…和上天平十二載十月廿九日戊の時に於て、龍興寺より出でて江の頭に至り…船に乗りて下り、蘇州黄泗に至る。…十二月廿日乙酉午の時、第二舟薩摩国阿多郡秋妻屋浦に著く」



史料
現代語訳や解説については下記を参考にしてください
『詳説日本史史料集』(山川出版社)
『精選日本史史料集』(第一学習社)
『日本史重要史料集』(浜島書店)
『詳解日本史史料集』(東京書籍)