(s0157)

「田堵と荘田の請作」

『東大寺文書』
「近江国依智庄検田使
  水田を勘え定むるの事
合わせて参町参佰壱拾歩(中略)
八条九里十二胡桃本田五段六十歩
  十八胡桃本田一段七十歩
 右の二坪は、本より中田なり。今地に臨みて見るに尤もこれ上田なり。これに因りて田刀前伊勢宰依知秦公安雄を召問い、勘して云く、『これ尤も上田なり。何ぞ中田の地子を進るや。あに三宝の物を犯すの罪無からんや』と。答えて云く、『これ昔定むる所なり。今の事に非ず。作意□ならず。何の罪か有らん』と。使迫めて云く、『仮令司愚にして□を弁ぜずとも、田刀何ぞ匡し申さざる。すべからく理に任せて上田となすべし』と。答えて云く、
『理に任せて行わるれば、いかにぞ拒捍せん』と。よりて上田となし、則ち地子を進る。
(中略)
十里五梨本田一段百六十歩 中
右の坪、本常荒と注す。今地に臨みて勘するに、すでに遠江掾依知秦公乙長の治田となる。ここに使論じて云く、『この坪本寺田一段百六十歩・治田六十歩有り。しかるに今寺田は常荒と称するに、本少なき治田は数有りて見熟す。これを推量するに、これ本の寺田にして、□して治田となすなり』と。答えて云く。『本の寺田は東と称す。今の治田は中の方に有り。指すところすでに異なる。何ぞ寺田と云わんや』と。使論じて云く、『本この坪の内寺田一段百六十歩・治田六十歩有り。この二つの田の中、寺田は東に在り、治田は西に在りと謂えるなり。寺田東の畔の辺に在りと謂うには非ず。加以、田は窪地より始めて開く。何ぞ本の寺田は岡に在り、今の治田は渓に在るや』と。ここにおいて治田主理に屈し、則ち地子を進る。(中略)
以前。延保去ぬる嘉祥元年より貞観元年に到るまで、その中間成すところ大略右の如し。後代のためにこれを記す。もし論有らば、これを以て決せんのみ。
  貞観元年十二月廿五日     使学頭  延保」



史料
現代語訳や解説については下記を参考にしてください
『詳説日本史史料集』(山川出版社)
『精選日本史史料集』(第一学習社)
『日本史重要史料集』(浜島書店)
『詳解日本史史料集』(東京書籍)