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「將門の乱」

『将門記』
「天慶二年十月廿一日を以て、常陸国に渉る。国、兼ねて警固を備へて将門を相待つ。…仍りて彼此合戦の程、国の軍三千人、員の如く討ち取らる。…時に武蔵権守興王、竊に将門に議して云う、『今、案内を検ずるに、一国を討つと雖も、公の責め軽からず。同じくは坂東を虜掠して暫らく気分を聞かん』てへり。将門報答して云う。『将門念ふ所もただ斯れのみ。其の由何となれば、…苟くも、将門刹帝の苗裔、三世の末葉なり。同じくば八国よりはじめて兼ねて王城を虜領せんと欲す。今すべからく先ず諸国の印鎰を奪い、一向受領の限り官堵に追い上ぐべし』と。『然らば則ち且つは掌に八国を入れ、且は腰に万民を附けん』者。大議已に訖り、又数千の兵を帯び、天慶二年十二月十一日以て先ず下野国に渡る。…時に、新司藤原公雅、前司大中臣全行朝臣等、兼ねて国を奪はんと欲するの気色を見て、先ず将門を再拝し、便ち、印鎰を捧げて地に跪いて授ける。 …其後、府を領して庁に入り、四門の陣を固め、且く諸国の除目を放つ。時に一昌伎ありて云へらく、八幡大菩薩の使ぞと□り、朕の位を蔭子平将門に授け奉る。 …将門を名づけて新皇といふ。 ―便ち、左右大臣・ 納言・参議・文武百官・六弁・八史・皆以て点じ定め、内印外印の鋳るべき寸法、古文の正字を定め了んぬ。…諸国の長官、魚の如く驚き鳥の如く飛び、早く京洛に上る。然る後、武蔵相模国迄新皇巡検し、皆印鎰を領掌し、公務を勤む可きの由を留守の国掌に抑す。乃ち天位に預る可きの状を太政官に奉し、相模自り下総に帰る。仍りて京官大いに驚き、京中騒動す」 



史料
現代語訳や解説については下記を参考にしてください
『詳説日本史史料集』(山川出版社)
『精選日本史史料集』(第一学習社)
『日本史重要史料集』(浜島書店)
『詳解日本史史料集』(東京書籍)