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「平治の乱の原因」

『平治物語』
「近来都に権中納言兼中宮大夫右衛門督藤原朝臣信頼卿と云人おはしけり。(中略)文にあらず武にあらず。能もなく芸もなく、只朝恩にのみほこり、父祖は年闌齢傾て纔かに従三位までこそ至りしが、是は后の宮の宮司・蔵人頭・宰相・中将・衛門督・検非違使別当より纔かに三箇年が間に経上て、歳二十七にして中納言右衛門督にいたれり。一人御子息の外は凡人に取てはかゝる例いまだなし。昇進かゝはらず、奉禄も又思がごとし。又家に絶てはひししき大臣大将に望みをかけて大方おほけなき振舞をす。みる人めをおどろかし、聞人耳をそばたてり。(中略)其比少納言入道信西と云者あり。(中略)当世無双の厚才博覧也。後白河の上皇の御乳母紀伊二位の夫たるに依て、天下の大小事を執行ひ、絶ざる跡を継、廃たる事を興す。(中略)かくて保元三年八月十一日に御位をさらせ給、第一の御子に譲参給ふ。二条院の御事也。しかる間信西が権勢弥重して、飛鳥もおち草木も靡程也。かゝる所に信頼・信西二人が中にいかなる天魔が入替けん、不快に聞えける。(中略)
 信頼子息新侍従信親とて十一歳になるを、大宰大弐清盛を婿になして、平家をかたらはばやと思はれけれども、一類国を給て恨残らず。其上信西が子息播磨中将成憲を婿に約束したるなれば、事悪かりなんとて思ひ返す。左馬頭義朝こそ保元以来平家に世のおぼえをとって恨み深かむなれ、語ばやと思ひ、義朝をよびよせ、憑べき由の給ば、『命を捨る事なり共たのまれたてまつるべし』と深く契りてぞ帰けり」



史料
現代語訳や解説については下記を参考にしてください
『詳説日本史史料集』(山川出版社)
『精選日本史史料集』(第一学習社)
『日本史重要史料集』(浜島書店)
『詳解日本史史料集』(東京書籍)