(s0255)

「摂関家領の横領」

『愚管抄』
「さる程に其年(仁安元年)の七月二十六日
 俄にこの摂政のうせられにければ、清盛の君こはいかにといふばかりなきなげきにてある程に、(中略)那綱が清盛公が許にゆきて云けるやうは『この殿下の御跡の事は、必しもみな一の人につくべき事にても候はぬなり。かたがたにわかれてこそ候しを、知足院殿の御時の末にこそ一になりて候しを、法性寺殿ばかりこそ皆すべておはしまし候へ。この北政所殿かくておはします。又故摂政殿の若君も此御腹にてこそ候は子ども、おはし候へば、しろしめされんに僻事にて候はじ物を』と云けるを、あだに目をさまして聞悦びて、そのまゝに云合せつゝ、かぎりあることゞもばかりをつけて、左大臣にて松殿おはすれば、左右なき事にて摂政にはなされて、興福寺、法成寺、平等院、勧学院、又鹿田、方上など云所ばかりを摂録にはつけて奉りて、大方の家領鎮西のしまつ以下、鴨居殿の代々の日記宝物、東三条の御所にいたるまで惣領して、那綱北政所の御後身にて、近衛殿の若君なるやしなひて、(下略)」



史料
現代語訳や解説については下記を参考にしてください
『詳説日本史史料集』(山川出版社)
『精選日本史史料集』(第一学習社)
『日本史重要史料集』(浜島書店)
『詳解日本史史料集』(東京書籍)