「かく待懸る処二十一日蒙古、船より下り、馬に乗り旗を挙げて責かゝる。日本大将には少弐入道覚恵の孫、纔かに十二三の者、箭合の為とて小鏑を射出たりしに、蒙古一度どっと咲くひ、太鼓をたゝき、どらを打て時を作すおびただしさに、日本の馬共驚躍て刎狂ふ程に、馬をこそ刷しが、向んと云事も忘れ、蒙古が矢短しと云とも、矢根に毒を塗たれば、ちとも当たる所毒気にまく。数万人矢崎を調て雨降る如く射ける上に、鉾長柄物具あきまを指して弛まず。一面に立双て寄する者あれば、中にして引退く。両方端をまわし合て取篭て皆殺ける。能振舞て死ぬるをば、腹をあけ肝を取り之を飲む。元より牛馬美物とするなれば、射殺せらるゝ馬を以て食せり。冑軽く馬には乗り、力強く命は惜しまず、強盛勇自在無窮に馳せ引くを、大将軍高き所に居上り、引くべき所には逃鼓を扣に随て夫寄引き、逃る時には鉄鉋を飛ばし暗くなし、鳴り高ければ心を迷い肝を失し、目くれ耳塞て忙然として東西を知らず、日本軍の如く相互に名乗合い、高名不覚は一人宛の勝負と思ふ処、此の合戦は大勢一度寄合て、足手の動く処に我も我もと取付て押殺し生捕けり、是の故に懸入る程の日本人とし
て漏るる者こそなかりけれ」 |