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「北条氏の滅亡」

『梅松論』
「元弘三年五月十八日条
未刻ばかりに、義貞の勢は稲村崎を経て前浜の在家を焼払ふ煙みえければ、鎌倉中のさはぎ手足を置所なく、あはてふあめきたる有様たとへていはんかたぞなき。高時の家人諏訪・長崎以下の輩、身命を捨てふせぎ戦ける程に、当日の浜の手の大将大館、稲瀬川にをいて討取、其手引退いて霊山の頂に陣を取、同十八日より廿二日に至るまで、山内・小袋坂・極楽寺の切通以下鎌倉中の口々、合戦のときのこゑ矢さけび人馬の足音暫も止時なし。さしも人の敬なつき富貴栄花なりし事、おそらくは上代にも有がらくめいしかども、楽つきて悲来る習ひ遁がたくして、相模守高時禅門、元弘三年五月廿二日葛西谷において自害しける事悲むべくも余あり。一類も同数百人自害するこそあはれなれ。爰にふしぎなりしは、稲村崎の浪打際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、俄に塩干て合戦の間干潟にて有し事。かたがた仏神の加護とぞ人申ける。然間に鎌倉は南の方は海にて三方は山なり。嶺つゞきに寄手の大勢陣を取て麓におり下り、所々の在家に火を放ちしに、いづかたの風もみな鎌倉に吹入て、残所なくこそ焼はらはれける。天命に背く道理明らかなり。治承に右幕下草創より以来、天にせぐくまり地 にぬき足して、上を尊び下を恵み、政道の法度騎射の日記を定置て国を治めしかば、狼煙たつ事なく、家々戸ざしを忘れて楽栄て久しかりしに、時刻到来にや、元弘三年の夏、時政の子孫七百余人同時に滅亡すといへども、定置ける条々は今に残り、天下を治め弓箭の道をたゞす法と成けるこそ目出度けれ」



史料
現代語訳や解説については下記を参考にしてください
『詳説日本史史料集』(山川出版社)
『精選日本史史料集』(第一学習社)
『日本史重要史料集』(浜島書店)
『詳解日本史史料集』(東京書籍)