| 「元弘三年八月三日より、軍勢恩賞の沙汰有るべきとて、洞院左衛門督実世卿を上卿に定らる、之に依り諸国の軍勢軍忠の支証を立、申状を捧げて、恩賞を望む輩名何千万人と云数を知ず、其中に実に忠有者は功を憑で諛ず、更に忠無者は媚を奥竈に求め上聞を掠ける間、数月の間に纔に廿余人の恩賞を申沙汰せられらりけれ共、事正路に非ずとて軈て召返されにけり、さらば上卿を改よとて、万里小路中納言藤房卿と上卿に成され、申状を附渡さる、藤房之を請取否を正し、浅深を分ち、各申与んとし給ひける処に、内奏秘計に依て、只今までは朝敵なりつる者も安堵を賜り、更に忠なき輩も五箇所十箇所の所領を給りける間、藤房諌め言を納かねて、病と称して奉行を辞せらる。(中略)相模入道の一跡の徳宗領をば内裏の供御料所に置れぬ、舎弟四郎左近大夫入道の跡をば兵部卿親王へ進たせらる、大仏陸奥守の跡をば准后の御領になさる、此外相州の一族の一跡、関東家風の輩の所領をば、指る事も無き郢曲妓女の輩、蹴鞠伎芸の者共、乃至衛府諸司女官僧に至まで、一跡二跡を合て、内奏より申給ければ、今は六十六ケ国の中に立錐の地も軍勢に行べき闕所は無りけり、かゝりけれ
ば、光経卿も心計は無偏の恩化を申沙汰せんと欲し給ひけれども、叶はで年月をぞ送られける。(中略)或は内奏より訴人勅許を蒙れば、決断所にて論人に理を付られ、又決断所にて本主安堵を賜れば、内奏より其他を別人の恩賞に行はる、此の如く互いに錯乱せし間、所領一所に四五人の給主付て、国々動乱更に休時なし」 |