(s0379)
「明徳の乱」 |
『明徳記』 |
「山名満幸、和泉へ馳越て奥州に申されけるは、『抑近日京都の式法何とか思召され候、只事に触て此一門を亡ぼさるべき御結構なり。其故は、去年は貴殿・我等に仰付られて予州の一跡を失はる。当年は又彼等を御免の上は、定て我等が讒訴の所存を此時彼等申開べし。さるに於ては又我等を御退治の沙汰に及ぶべし。所詮、事体を案ずるに、当家世を取とも人驚にも侍らず、一族悉く同心して分国の勢を併せ方々より京都に責上ば、今程誰か在京の大名の中に、味方と対揚の合戦をも仕るべき。先ず京をだにも一度打随へなば、他家一族も大略同心こそ仕候はんずらめ。其外土岐・富樫を始として、近日世にせばめられ面目を失者あまた侍れば、是等は最前に同意仕べし。(中略)時の儀に随ひて御旗を揚らるるの事、何の子細か侍るべき』と終宵かき口説申されたり」 |
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現代語訳や解説については下記を参考にしてください |
『詳説日本史史料集』(山川出版社) |
『精選日本史史料集』(第一学習社) |
『日本史重要史料集』(浜島書店) |
『詳解日本史史料集』(東京書籍) |