「建武二年七月に高時の息勝長寿丸 相模二郎時行斗号す 信濃の勢を語て鎌倉へ責上る。直義朝臣防戦すと雖も、無勢の間鎌倉を出て、成良親王を具し奉て京都へ上る。其時預置奉る兵部卿親王、元より野心御座ければ、伴ひ奉るに及ばず打ける。此親王は既に王子を出て、四明の窓に入り給ひて、天台座主に列り賜しぞかし。 御心武く渡せ給ひて、還俗し御座て、元弘の乱をも宗と御張本有しぞかし。然ども如何なる御業に今角ならせ給らん、浅猿し。御骸をだにも取隠し奉る人も無りき。是偏に多くの人を失給ひし悪行の故とぞ見えし。去程に直義武蔵国へ打出る所に、凶徒多勢を以て合戦を致す間、打負て落行く処に、尚凶徒責懸る間に、直義一族渋川刑部少輔帰し合せて打死す。此間に成良親王并びに直義京都へ落上けり。同廿八日相模次郎鎌倉へ打入る。関東の侍并びに在国の輩は皆鎌倉に付て、天下又打帰して見えける程に、京都の騒動斜ならず。其時尊氏罷向ふ可き由仰らる。『直義打負て落る上は、申請て罷向ふべき由存じ候、但し頼朝が例に任せ、惣追捕使、征夷将軍の宣旨を蒙らん』と申す処に、叶はずして征夷将軍の官を送らる。無念に存じ乍ら、既に尊氏は発向
しけり。直義には三河国にして行合計ひ、共に下向す。海道所々の合戦に打勝て、諸人尊氏に降参す。尊氏は忠又重畳也。然る所に、故兵部卿親王の御方臣下の中にや有けん、尊氏謀反の志有る由讒し申て、新田左衛門佐義貞を召て、種々の語ひをなして、左中将に申成て、上野国は尊氏分国也、義貞に申充けり。何なる明主も讒臣の計申事は、昔も今も叶ぬ事にて、尊氏上洛せば道みて打つ可き由を義貞に仰す。扨尊氏を京都より召る。勅使蔵人中将源朝光也。『関東勢をば直義に付置、一身急ぎ馳参ずべし』と云々。尊氏勅定に応じて上洛する所に、京都より内々此事を告申ける人も有けるにや、又直義も東国の侍も不審に思て留めければ、尊氏上洛せず。其時さればこそ謀反の志有る由重て讒し申に依て、討手を下されけり」 |