| 「応永三十五年正月十八日辛丑 天晴、大樹内大臣殿薨逝したまう。(中略)長得院大樹は父公に先だちて薨去し了ぬ。よって女子御両所の外、継嗣の器なし。武将忽に闕くは珎事というべし。畠山左衛門入道道瑞 管領なり 已下の諸大名相談じ、昨朝三宝院僧正を以て継嗣の御人躰を伺うの処、その器なきによって仰せ置かるるに及ばず、且つ縦い仰せ置かるると雖も、面々が用い申さざれば正躰あるべからざるの由、押せあり。よって只仰せに随うべし、但し他人の御猶子においては用い申すべからず、御連枝四人 各釈門なり の内を以て仰せ定めらるべきの由、各々これを申す。然らば連枝四人の御名字を書き連ね、八幡宮の神前において孔子をとり、神慮に任さるべきの由、仰せあり。 或説に、緒御連枝四人の内、諸大名が計い申すべきの由、仰せあるの間、孔子たるべきの由、諸大名評定す、と云々。よって諸大名等、三宝院僧正をして孔子を書かしむ。所謂青蓮院准后・大覚寺大僧正・相国寺僧隆蔵主・梶井僧正なり。筥に入れて畠山入道が石清水八幡宮に持参す。神前御棚上において、畠山入道これをとる。両度これを取るに青蓮院なり。次に他人をしてこれを取らしむ
る処、また青蓮院なり。三ケ度同前と云々。次に帰京の処、已に御分別の儀なく、惘然の御式なり。時に深更と云々」 |