(s0497)

「嘉吉の土一揆」

『建内記』
「嘉吉元年九月三日丁酉 天晴。(中略)近日四辺の土民蜂起す。土一揆と号し御徳政と称して借物を破り、少分をもって押して質物を請く。ことは江州よる起る。守護佐々木六角張行せしむ。坂本・三井寺辺・鳥羽・竹田・伏見・嵯峨・仁和寺・賀茂辺、物□常篇に絶す。今日法性寺辺この事ありて火災に及ぶ。侍所多勢をもって防戦するもなお承引せず、土民数万の間防ぎえずと云々。賀茂の辺か今夜時の声を揚ぐ。去る正長年中この事あり、已に洛中に及び了ぬ。その時は畠山管領たり、遊佐故河内守出雲路において合戦、靜謐し了ぬ。今土民等代始に此の沙汰先例と称すと云々。言語道断の事なり。(中略)
六日庚子、天陰、(中略)今夜時の声河東に響く。終夜物□、言語道断の事なり。土一揆洛中洛外の堂舎・仏閣に楯篭り、徳政を行われざれば焼払うべきの由、これを訴訟す。(中略)
 十日甲辰、天晴、(中略)今度土一揆蜂起の事、土蔵一衆まず管領に訴え千貫の賄賂を出す。元来政道のため濫吹を止め防戦すべきの由領状の処、今防ぎ得ず候。諸大名等且は同心せざる人々これあり、よりて管領、千貫を返し防禦をやむと云々。
 十二日丙申、天晴、(中略)土一揆なお以て所々に発向し、時の声を揚ぐ。嗷々以ての外なり。大略申請に任せて徳政を行わるべしと云々。土民においては子細あるべからざるの由裁許の処、土民等は殊なる借物なく殊なる質物なし、公家・武家の人々は切迫の条痛敷く相存ずるの間、張行する所なり。悉皆同じく許さるべきの由、土民なお之を申す。よって滞停すと云々。土民この儀に及ぶは、後日の罪科を恐れ、頻に尊卑を論ぜず裁許せらるべきの由を申し請うと云々。
 十四日戊申 天晴
 定む 徳政の事、
 右、一国平均の沙汰たるべきの旨、触れ仰せられ訖ぬ。早く存知せしむべき の由、仰せ下さる所なり。よって下知件の如し。
   嘉吉元年九月十二日     中務少輔源朝臣
徳政制札案かくの如しと云々。中務少輔は武家の侍所 京極也なり。抑も徳政の号は皇化を施さるる古来の通称なり。意見を諸人に召されて切磋せしめ、その中に新制を定めらるる事なり。今の武家の徳政の沙汰は、縡土民の雅意より起こる。ただ無理に質物を破り借書を破る者、その儀ばかりを以て徳政と号す。更に徳政の実に背く、比興の事なり」



史料
現代語訳や解説については下記を参考にしてください
『詳説日本史史料集』(山川出版社)
『精選日本史史料集』(第一学習社)
『日本史重要史料集』(浜島書店)
『詳解日本史史料集』(東京書籍)