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「キリスト教の伝来」

『耶蘇会士日本通信』
「予は印度出発以来マラッカ到着までの我等の航海ならびに航海中に我等がなしたる事につきてマラッカより長き書簡を送りしが、今我等の主デウスが無限の御慈悲をもって我等を日本に導き給ひしを記述すべし。1549年サン・ジュアンの祭日の午後、当地方に渡るため、我等はマラッカより我等を日本に連来ることをマラッカの司令官に申出たる異教徒たるシナ商人の船に乗りたり。(中略)一五四九年八月、聖母の祭日、サンタ・フェ−のパウロの故国なる鹿児島に着きたり。彼の親戚その他は愛情を示して我等を迎へたり。…
 日本に付きては我等が見聞して知り得たる所を左に述ぶべし。第一我等が今日まで交際したる人は新発見地中の最良なる者にして、異教徒には日本人に優れたる者を見ること能はざるべしと思はる。此国の人は礼節を重んじ、一般に善良にして悪心を懐かず、何よりも名誉を大切とするは驚くべきことなり。国民は一般に貧窮にして、武士の間にも武士の間にあらざる者の間にも貧窮を恥辱と思はず。彼等の間には基督教諸国に有りと思はれざるもの一つ有り。即ち武士は甚だ貧しきも、武士にあらずして大なる富を有する者之を大に尊敬して、甚だ富裕なる者に対するが如くすることなり。又武士は甚だ貧しくして多額の財産を贈らるゝも、決して武士にあらざる階級の者と結婚することなし。賎しき階級の者と結婚する時はその名誉を失ふべしと考ふるがゆえなり。彼等は此の如く富よりも名誉を重んず。この国の人は互いに礼儀を尽くし、又武器を珍重し、大にこれを信頼せり。彼等は常に剣および短剣を帯し、貴族も賎しき者も皆十四歳よりすでに剣を帯せり。彼等は少しも侮辱または軽蔑の言を忍ばず。(中略)多数の人皆読み書きを知れるが故に、速に祈祷及びデウスの教を修得す。この地は盗賊 少し。盗をなす者を発見っする時はこれを処罰し、何人をも生存せしめざるがゆえなり。彼等は盗の罪を非常に憎悪せり。此国の人は善良なる意思を有し、好く人に交はり、大に知識を求め、デウスの事を聴き之を解する時は甚だ喜べり。予が一生のうちに観たる各国のうち、キリスト教国とキリスト教国にあらざるとを問わず、かくのごとく盗を憎む所なり。(中略)俗人の間に罪悪少く、又道理に従ふことは坊主(Bonzos)を称すパードレ及び祭司に勝れり。(中略)
我等よき真の友なるサンタ・フェーのパウロの町において、同所の司令官(Capitao)およびその地の知事(Alcayde)ならびに一般民衆より大なる好意と親切を以て迎へられたり。彼等はポルトガルのパードレを見て大に驚きしが、パウロがキリシタンとなりたることを少しも異とせず、かえって大に尊敬し親戚その他は彼がインドに行きて当所の人が見ざる事を見たるを大に喜べり。当国の太守(Duque)もまた大に彼を愛し、多くの栄誉を与へ、ポルトガル人の習慣、武勇および政治並に印度の所領につきていろいろ質問し、パウロが何事もよく説明したれば、大に満足せり。(中略)同夫人はキリシタンの信ずる所を書面に認めて送付せんことを請ひたれば、パウロはこれを作るため数日を費す、わが教の事を多くその国語にて書きたり。(中略)我等もし国語を話すことを得ば、すでに多くの事を成したるならん。パウロは多数の親戚友人に対して昼夜説教をなしたれば、その母、妻および娘、ならびに男女の親戚および友人の多数、キリシタンとなりたり。今当地においてはキリシタンとなることは怪まず、彼等の大部分は読み書きを知れるがゆえに速に祈祷を覚ゆ。
 天文十八年十月十六日 鹿児島より
    キリストにおいての最も愛する兄弟 フランシスコ」



史料
現代語訳や解説については下記を参考にしてください
『詳説日本史史料集』(山川出版社)
『精選日本史史料集』(第一学習社)
『日本史重要史料集』(浜島書店)
『詳解日本史史料集』(東京書籍)