(s0557)

「賎ケ岳の戦い」

『毛利家文書』
「天正十一年五月十五日付書簡
(前略)
一、柴田息をつかせては手間も入り申すべく候かと秀吉存じ、日本の治め此時 に候の条、兵共を討死させ候ても筑前不覚にて有間敷とふつつと思切り、廿 四日の寅刻に本城へ取懸かり、午刻に本城へ乗入り、悉く首を刎ね候事。
一、城中に石蔵を高く築き、天王を九重に上げ候の処へ、柴田弐百ばかりにて 相拘へ候。城中狭く候の条、惣人数入りこみ候へば、互共道具に手負ひ死人 これ在るに依り、惣人数の中にて兵を撰び出し、天主内へうち物ばかりにて 切入らせ候へば、修理も日比武篇を仕付けたる武士にて候条、七度まで切り て出候といへども、相禦ぐ事叶はず、天主の九重目の上へ罷上り、惣人数に 詞を懸け、修理が腹の切り様見申して後学に仕り候へと申付けて、心もある 侍は涙をこぼし、鎧の袖をひたし候に依りて、東西ひっそと静まり候へば、 修理妻子共其外一類刺し違ひ、八十余身替らざる者切腹し、申下刻に相果て 候事。
一、廿五日賀州へ出馬し、諸城相踏み候と雖、筑前守の太刀風に驚き、草木ま でも相靡く体にて候に付きて、越中境目金沢と申す城に馬を立て、国々置目 等申付け候内に、越後長尾人質を出し、筑前次第に覚悟せしめ候の条、赦免 せしめ、去る七日に安土まで打入り申し候事。(中略)
一、隙明け候間、筑前守は江州坂本にこれ在り、此中忠節仕り候者には国郡を 遣し、安堵の思ひを作り候事。(中略)
一、東国は氏政、北国は景勝まで、筑前覚悟に任せ候。毛利右馬頭殿、秀吉存 分次第に御覚悟成され候へば、日本の治め頼朝以来これには争か増べく候や。 能々御異見専用に候」



史料
現代語訳や解説については下記を参考にしてください
『詳説日本史史料集』(山川出版社)
『精選日本史史料集』(第一学習社)
『日本史重要史料集』(浜島書店)
『詳解日本史史料集』(東京書籍)