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「キリシタンの禁圧」

『日本切支丹宗門史』
「1613年12月27日、京都のキリシタンの名簿を調製せよとの命令が下り、同じ命令は伏見、大坂、及び堺の奉行にも下った。この名簿には、単に異国人ばかりでなく、土着の人をも加へる筈で、之が皆追放されることになっていた。
 京都の駐在所長デ・マットス師は、公方様に謁見を願ひ出たが、許されなかった。左兵衛は、宣教師達に対して好意を持っているように見せていたが、実は迫害の煽動者の一人で、もう時機が遅すぎると言って斡旋を断わった。
 1月27日、禁令は京都で発せられた。之によると、諸侯は皆、其領内にいる修道者達を悉く長崎に送り、修道者の出発後は天主堂を破却し、キリシタンを棄教せしめよと言ふのであった。
 左兵衛の意向では、宣教師達を国内から根絶し、棄教を肯ぜぬキリシタンは、全部死を以て追放し、以て宗門を根底から絶滅する考へであった。(中略)
 名簿の登録は、30日間続いた。4000人が登録されていた。然し、所司代は、内府様の機嫌を害ふまいと、僅かに、1600人しか留めておかなかった。然し実は、京都には7000人以上のキリシタンがいたのであった。(中略)
 京都の所司代板倉殿は、敢て将軍の命令に背かうとはせず、相模殿に命じて天主堂を破却し、キリシタンに対しては、棄教して各自勝手な宗旨を選択させることにした。彼は、秘かに部下の役人に命じて、違背者に対して、特に脅迫や苛酷な屈辱的な取扱をなし、愈々といふ場合に、追放させることにしたが、但し殺すことだけは禁じた。(中略)上京の奉行は、所司代の意向を知らぬ振りをして、領民を苛酷に取り扱った。彼は男女合わせて20人ばかりを捕縛させた。男は素裸にして町を引き廻され、恥辱を与へられた上、終には広場に曝されて、日暮まで放置された。他のキリシタン、殊に秘かに首府内に潜伏していた伝道者3人は、彼等がよく耐へ得られるやうにと激励の言葉を与へ、又彼等のために40時間の祈祷をさせた。翌日、一行は更に引き廻され、次いで、殆どくぶれるまでしっかり橋の欄干に縛られた。3日目に、また同じことが繰り返された。それから牢にぶち込まれて、そのまま放置された。女子は遊里に遣られたが、彼女達は自ら頭を剃って醜女となり、信仰、貞節共に堅固で、尊敬されたほどであった。終に、彼女達は、一キリシタンの家に預けられ、同所で、神の摂理により、 祈祷と修業の中に、夫や自分等にふりかかる運命を待った」



史料
現代語訳や解説については下記を参考にしてください
『詳説日本史史料集』(山川出版社)
『精選日本史史料集』(第一学習社)
『日本史重要史料集』(浜島書店)
『詳解日本史史料集』(東京書籍)