(s0655)
「島原の乱」 |
| 『クーケバックルの書簡』 |
| 「1637年12月17日に、われわれは有馬地方の農民たちが反乱をおこし、武器をとって起た、貴人や市民たちの住む家々を悉く火にかけ、数人の貴人を殺害し、また城内に残っていた侍たちを放逐してしまったという報道に接した。(中略)新来の領主は…農夫たちの上にもますます重い租税を課し、到底その負担に堪えられない程多額の米を差し出すように強いたのである。定められた租税を支払うことの出来ない人々には領主の命によって、葉が長くて広い草で作った粗末な外衣を着せる。日本人はこれをミノと呼んでいる。船頭や農夫が雨具に用いるのである。この外套を頚と胴に結びつけ、両手は綱で背後に堅く縛られる。ついでこの藁の外套に火を放つ。人々はただ火傷を負うだけでなく焼死ぬ者もあり、又身体をはげしく地に叩きつけたり、水に身を投げて溺れたりして死をえらぶ者もある。この悲劇は藁踊と呼ばれた。残忍な暴君はこの苛酷な行為には満足せず、さらに命じて婦女たちを裸にして両脚をくくり、これを倒に吊したり、いろいろな手段で辱めた。(中略) この衝突が起こってから数日の後、有馬のキリスト教徒が農民の仲間に加わった。農民たちは親しくこれを迎えた。彼等は日本風の、つまり異教の教会をっすべて焼き尽し、処女マリアの像を祀る新しい教会堂を建てた。そしてその軍勢は十字架を描いた旗を用いていた。彼等は、勝利を得るのもまた敗北に終るもの、偏に神の栄光のためだる、また神への奉仕であるといった。彼等は国中に呼びかけ、多くのキリスト教徒や宣教師たちが流した無辜の血潮に酬いる時が到来した、自分達は信仰のために死に就く覚悟が出来ている、と説いたのである。 彼等に加担する人数は日を追ってふえていった。そして今は農民とキリスト教徒の数は1800程に及んでいる」 |
| 現代語訳や解説については下記を参考にしてください |
| 『詳説日本史史料集』(山川出版社) |
| 『精選日本史史料集』(第一学習社) |
| 『日本史重要史料集』(浜島書店) |
| 『詳解日本史史料集』(東京書籍) |