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「島原の乱の陣中日記」 |
『嶋原天草日記』 |
「正月二日、肥前寺井、これより海路を渡りて島原に至る。大風舟を漂わす。 三日、同国嶋原の渚。去元日、原城を攻むるの処、板倉内膳討死の旨、告来 る。伊豆守士卒を甲斐守に付与し、戸田左門氏鉄を伴い、嶋原城に至り て寓宿し、明日陸路より有馬に着く。(中略) 十日、海上より鉄砲を具へて賊城を撃たしむといえども、舟小さく城高くし て、意の如くならざるなり。ここの於て大船を探求せしめ、幸い阿蘭陀 大船平戸沖に在り。阿蘭陀人に課して其の船を漕送せしめ、賊城に向い 石火矢を放たしむ。(中略) 廿日。 賊徒の為四郎母五十歳計り、姉女廿二三歳、妹、小左衛門廿七歳姉婿、 甥小平、肥後国に禁獄す。伊豆守信綱、左門氏鉄の命により、これを以 て来る。(中略) 廿七日。阿蘭陀舟を平戸へ帰帆せしむ。 二月小朔日。四郎甥小平に小左衛門の状を持たしめ、城内に遣わさるる趣。 一筆申入れ候。我等共並びに召連れ候四人の者共、五六日以前、有馬へ 召寄せられ、御上使衆、松平伊豆守様、戸田左馬様、御前へ召出され候。 其に就き御上使衆仰聞かされし様子、一つ書きを以て申入れ候。御披見 の上、御返事待ち申し候。(中略) 一、去年今年の内、城より落ちる者合わせて三四人御座候処に、命を御助 け成され、其の上金銀を下され、剰え其の在所の内にて、当年は作取り に仕り、其の外色々忝けなく仰付けらるる様にて、出で候者大形ならず して、忝けなかり候由承り候事。 一、惣手より今度起こり候まきぞへに成り、無理に吉利支丹になし申し、 センチョ城中へ篭り候者は申すに及ばず、又、其の身より望みて今度発 し候に付て吉利支丹に罷成り、只今に至る迄後悔に存じ、城中より罷出 で、本の如くセンチョ罷成るべき儀に候はば、 これ又御免成さるべきの 由に候。右の通りの者城中を出し候はば、四郎母、同姉福、妹万、をの こ小平、四人共に城中え御入れ成さるべく候由、伊豆守様、左門様、御 直ちに仰聞かされ候事。 (中略) 十日、頃々、城中に於て度々大鼓を鳴らし躍り舞う有り。其の歌に云く、 一、かかれかかれ寄衆もっこてかかれ、寄衆鉄砲の玉の有らん限りは 一、とんとと鳴るは寄衆の大筒、ならすとみしらしょこちの小筒て 一、有かたの利生や、伴天連様の御影て、寄衆の頭をすんと切支丹 斯の如く賊徒会集して踊舞を催す。歌声・鼓音は城外に姦し。(中略) 廿七日、(中略)既に廿六日攻城の計謀に合わす。然れども廿五六両日相続 きて雨降る。この故議して廿八日に限定す。諸手の竹柵は敵城に近く、 其の間僅か五間計り。(中略)伊豆守直ちに戸田左門の仮屋に至り、列 陣の御譜代衆を集め、暫く閑談有り。然る処、鍋嶋信濃守の備より城を 攻めしむ。他備の士卒これを見て各自相進む。此の時に当り紛□々と雖 も、約束既に明らかなるを以て、諸部渾々沌々として錯乱を垂れる。未 剋、出丸並びに二三丸を責取り、酉剋、本丸海手の方を乗取る。 二十八火、諸手本城に登り入る。悉く火を放つ。賊徒一人として殺害せざる はなし。午上剋、凱歌を唱え、即ち各々仮屋に帰る。(中略) 三月大朔日、昨日伊豆守の令有りて、今日諸将賊城を破壊す。 二日、賊徒の頚を獄門に懸く。篭城の人数、男女凡そ三万七千人。 三日、賊徒の将四郎一類悉く刃殺せらる。其の外生捕りて斬罪せしむ。剰え 童女の輩に至るまで、死を喜びて斬罪を蒙く。これ平生人心の致す所に 非ず。彼の宗門に侵たる所以なり」 『徳川禁令考』 「鎖国令(ポルトガル船の来航禁止)」179P,2L 「 条々 一、日本国御制禁成され候切支丹宗門の儀、其趣を存じ乍ら彼の宗を弘むる者 の今ニ密々差渡るの事。 一、宗門の族、徒党を結び、邪儀を企つれば則ち御誅罰の事。 一、伴天連同宗旨の者、かくれ居る所江彼国よりつけ届物送りあたふる事。 右、茲に因りて自今以後かれうた渡海の儀、停止せしめられ畢んぬ。此上若差渡るニおゐては其船を破却し、并乗来る者速かに斬罪に処せらるべきの旨仰せ出さるる所也。仍執達如件。 寛永十六年卯七月五日 覚 一、切支丹宗門の儀、堅く御制禁の上、弥々其の旨を守り、彼の法を弘むるも の乗来るべからず。若し違背致し候者、其の船中悉く曲事たるべし。自然隠 し載来るにぴては、同船のものたりといふ共、これを申上ぐべし。急度御褒 美下さるべき者なり。 是は阿蘭陀人え相伝の覚書」 |
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現代語訳や解説については下記を参考にしてください |
『詳説日本史史料集』(山川出版社) |
『精選日本史史料集』(第一学習社) |
『日本史重要史料集』(浜島書店) |
『詳解日本史史料集』(東京書籍) |