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「松平定政の遁世」

『藩瀚譜』
「慶安四年七月九日、定政己が家に、増山弾正忠、中根大隅守、宮城越前守、牧野織部正、石谷十蔵、林道春六人を請じ、饗応事終わりて後、定政、牧野・中根・石谷三人に向ひ、人々頼み参らすべき事あり。又残る人には、定政が申事をば、能く聞かせ玉ひて、後日の証人に頼み参らするに候。抑も、定政故将軍家の御恩、高く厚く蒙りたる身なり。一たびは命を捨て、報ひ奉らんと存ぜしに、世を早うせさせ玉へば、年頃の所存、空しくなり畢んぬ。縦令当代に仕へて、我忠を致さん事を思ふとも、今の執政の人々が、輔け奉るやうならんには、君未だ御幼稚なり。天下乱れん事、遠きに有るべからず。井伊殿・阿部殿へ此事申さんが為に候とて、直孝・忠秋のもとへ、一封の書取出て、三人にぞわたしける。人々興さめて、大に驚き思ひしが、さて止むべき事ならねば、掃部頭のもとに行向て、此由を語りて、彼書をつたふ。直孝一人して見るべきにあらずとて、執政の人々打寄て、開き見るに、始には、定政が廿歳の時より、四十二歳に及ぶまで、夢に見たりし歌どもをしるし、その次に、自詠の歌書て、奥には、定政世にありしむかし、いかでかゝることを申べき、今は憚る所なき 身となりぬ、思ふ所を残すべからず、尋ね玉ふべき事あらんには、召しに従ひて参るべきにて候とぞ、書きとどめける。此文のやうにては、定政いかになりぬらんと尋ねるに、人々にこの文わたしてのち、忽ち上野の山に入りて、髪そりて捨て、嫡子をも入道させ、のこる二人の男は、兄の隠岐守が許へつかはし、妻をも、舅の永井信濃守がもとに返しぬ。人々こは如何にと、いよいよ驚く。又掃部頭の許へ消息す。まづみづからが名を天徳院大居士としるす。此書には、諷諌の言葉など、少々書のせて、さてさが所領の地より、兵器雑具にいたるまで、尽くに将軍家にたてまつるよしを載せたり。父子并びに郎等四人ともに、入道して、墨染の衣の下に、打刀横たへて、銅鉢さゝげ、『松平能登の入道に、ものたべものたべ、南無阿弥陀仏』と申て、東西の町々をめぐりありきぬ」



史料
現代語訳や解説については下記を参考にしてください
『詳説日本史史料集』(山川出版社)
『精選日本史史料集』(第一学習社)
『日本史重要史料集』(浜島書店)
『詳解日本史史料集』(東京書籍)