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「関東取締出役」

『旧事諮問録』
「問 八州取締はいかがですか。
 答 これは関東取締の始めから申しませぬと分かりませぬが、たしか寛政か ら享和の間で、野洲に山口鉄五郎という御代官があって、自分の管轄内 で悪事をした者が他領へ逃げ込み、また他領の悪者もこちらへ逃げ込ん だりして、どうしても捕縛することが出来ぬ。他領へ入った者を縛せぬ のは、一応その領主へ照会しなければならぬからで、またこちらへも先 方から照会して来なければならぬ。そのうちに悪人はどこへか逐電して しまう。すべて芝居や何かでも禁じてあるのですが、双方の管轄地の中 央へ来て興行する。それを制することが出来ませぬ。このままでは土地 の人気も悪くなり、長脇差なども出来てまいって、どうしても防ぐこと が出来ぬ。すると、そのころ評定所組頭に羽田藤左衛門という人があっ て、それを聞き、これは棄て置かれぬというので評議にかけ、初めて関 東取締出役が出来たと申すことであります。その当時は御代官支配地を 御料と称え、余は私領と称えましたが、出役はその御料私領の差別なく 踏み込んで、どこででも悪者を捕縛できるというのであります。その時 分は八人でありましたが、それが博奕でも何でも、刑法に係わるものは 残らずみな捕縛したので、そうして調べのうえ口書を添えて、公事方の 御勘定奉行へ出します。そうすると、その刑罰は評定所で極めるのであ ります。
問 その八人の役柄は。
 答 やはり手付手代の中から、そっちへ向きそうな人を選んで遣わしたので あります。
 問 その八人が使う下の者は何人くらいおりますか。
 答 それは組合というものがあて、千住の組合とか、どこの組合とか、五十 カ村、六十カ村に、その村々に惣代というものがあって、その惣代の相 談で、これなればよかろうという者を人選して、それを『道案内』と称 えたもので、五十カ村六十カ村で年々出したので、それに大小があるか ら、大きな組合では三名くらい、小さな組合なれば一人くらいでありま す。(中略)それに『寄場』と称えて、或いは千住の寄場とか、板橋の 寄場とかいうのがあります」



史料
現代語訳や解説については下記を参考にしてください
『詳説日本史史料集』(山川出版社)
『精選日本史史料集』(第一学習社)
『日本史重要史料集』(浜島書店)
『詳解日本史史料集』(東京書籍)