(s0769)

「西洋への関心」

『蘭学事始』
「今時世間に蘭学といふ事専ら行はれ、志をたつる人は篤く学び、無識なる者は漫りにこれを誇張す。其初を顧み思ふに、昔、翁が輩二三人、不図此業に志を興せし事なるが、はや五十年に近し。今頃かく迄に至るべしとは露思はざりしに、不思議にも盛んなりし事なり。
一、扨、毎々平賀源内などに出会ひし時に語り合ひしは、遂々見聞する所、和 蘭実測窮理の事共は驚き入りし事ばかりなり。若し直に彼図書を和解し見る ならば、格別の利益を得る事は必せり。されども是まで其所に志を発する人 のなきは口惜しき事なり。
一、帰路は、良沢、淳庵、翁と三人同行なり。途中にて語り合ひしは、扨々今 日の実験一々驚き入る。且つこれまで心付かざるは恥づべき事なり。苟くも 医の業を以て互ひに主君へ仕ふる身にして、其術の基本とすべき吾人の形態 の真形を知らず、今迄一日々々と此業を勤め来りしは面目もなき次第なり。 (中略)其時、翁申せしは、何とぞ此『ターフル・アナトミア』書にうち向 ひしに、誠に艪舵なき船の大海に乗り出だせしが如く、茫洋として寄るべき かたなく、只あきれにあきれて居たる迄なり。されども、良沢は兼ねてより 此事を心に掛け、長崎迄もゆき、蘭語並びに章句語詠の間の事も少しは聞き 覚え、聞きならひし人といひ、齢も翁などよりは十年の長たりし老輩なれば、 これを盟主と定め先生とも仰ぐ事となりしぬ。翁はいまだ二十五字さへ習は ず、不意に思ひ立ちし事なれば、漸くに文字を覚へ、彼諸言をもならひし事 なり。
一、(中略)一向にわからぬ事ばかりなり。譬へば、『眉といふものは目の上 に生じたる毛なり』と有るよふなる一句、彷彿として、長き日の春の一日に は明らめられず。日暮るる迄考へ詰め、互ひににらみ合ひて、僅か一二寸斗 の文章、一行も解し得る事ならぬことにて有りしなり」



史料
現代語訳や解説については下記を参考にしてください
『詳説日本史史料集』(山川出版社)
『精選日本史史料集』(第一学習社)
『日本史重要史料集』(浜島書店)
『詳解日本史史料集』(東京書籍)