(s0897)
「徳川慶喜の横浜鎖港の主張」 |
『昔夢会筆記』 |
「予はこの時、もはや鎖港はとうてい行わるべきにあらざれば、この際断然開港の方針に一変するこそよけれと考えたれば、二条城中にて、酒井雅楽頭水野和泉守等にその事をいい出でたるに、彼等は答えて、『今度、将軍家御上洛あるについては、御出発前、御前において板倉周防守はじめと評議して、決して薩摩州の開港説には従うまじき由を決議したるなり。そもそも昨年御上洛の時には、長州の説を聴きて攘夷の議を決し、今年は薩州の説に従いて開港の議に傾くがごときは、これ幕府に一貫の主義なくして、いたずらに外藩に翻弄せらるる姿となれば、断じて開港説には同じ難し』といえり。(中略)予は『さらば将軍家の思召しによりて決すべし』とて、台慮を候したるに、『老中等のいえるとおりなり』と仰せられしかば、今はせんすべなく、『畏まりぬ』とて御前を退き、それより中川宮邸に至りて、かの暴論に及びたるなり」 |
現代語訳や解説については下記を参考にしてください |
『詳説日本史史料集』(山川出版社) |
『精選日本史史料集』(第一学習社) |
『日本史重要史料集』(浜島書店) |
『詳解日本史史料集』(東京書籍) |