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「隠岐の自治体制」

『隠岐島誌』
「御当国の義は、寛永の度より徳川氏の支配となり、享保の度より雲州の御預所となり郡代交代してその国政を関りとる。ここを以て幕府をさして君父と称し、国民その名義を失い、恐れながら天皇に御仁沢を戴き奉るということを知らず。我ら鄙賎のものといえども、つねにこれを欺きて止まざれども、また他にこの旨を語り示して開明になすこともあたわず。ただ我力の及ばざるを痛概いたすのみにて、荏苒今日にさしうつり候折柄、外夷日々に切迫、皇国未曽有の大患、止むを得ざるの形勢を察し、憂国のものども去る卯の五月防禦筋歎願尽力いたし候えども、偸安姑息を唱い、かつ暴怒を以てみだりに威し採用いたさず、加うるに国政をほしいままにし、酒色にふけり、文武あるものを嫉み奸佞を近づけ、民心ことごとく相離る。その罪悪傍観坐視するに忍びず。よってこの度奸吏郡代並びに属吏にいたるまでもことごとく追い払い、なおまた奸吏に同心いたし候ものにいたるまで、糺問いたし改心せしめ候は、まったく私意をはさみ候事にてはこれなく、ただ御国内を一洗し、人心を一和せしめたき志願より出で候事に候。かつ徳川氏謀反の色顕然、これによって諸藩に追討の令を くださせられ、恐れながら御叡慮を悩ませられ候。されば徳川氏の下に住みしものといえども開闢以来天恩を蒙り奉りながらわずか二百余年の恩義になずみ、幕府をさして君父と唱うるにおいては、ともに国賊の境界に入りて、皇国の民とよばれず。
 かたじけなくも祖先以来父母妻子にいたるまで養育せしめ、ひとしく年月を送り、あるいは富み栄えて鼓腹歓楽にいたるまで、ことごとく天恩を蒙り奉り候。然れば自己の身命にいたるまで皆天皇の御物にして、毛頭我ものにはあらず。ここを以て鄙賎をかえりみず、身命をなげうって尽力いたし、皇国の民たる名分を尽さずんばあるべからず。ここに開明をとげ、同志いたすにおいては、これまで鄙賎を唱い、因循苟且いたしおり候ものも、今日より皇国の民たるべし。(中略)
慶応四年辰三月」



史料
現代語訳や解説については下記を参考にしてください
『詳説日本史史料集』(山川出版社)
『精選日本史史料集』(第一学習社)
『日本史重要史料集』(浜島書店)
『詳解日本史史料集』(東京書籍)