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「都会人の食生活」

『東京風俗志』
「都人の常食は米飯にして麦を交ふるは少く、偶まこれあるも多くは挽割を以てす。都人は実に麦飯を嫌へり。(麦飯喰ふくれえなら死んだ方がましだ)といふ江戸ッ児あれば、里帰りに(一番困っちまうのは麦飯なのよ、お母さん、どうかして麦を入れないやうさう言って下さいな)とだだを捏る花嫁さへ見る。炎天下だらだらになりて耕耘を務むる農夫の四分六分の麦飯を弁当にすることなどは、殆ど彼等の夢視せざる所なり。(中略)
 鳥肉は軍鶏、かしは、ひる等を主とす。獣肉は牛肉を主とし、豚肉これに次ぐ。(中略)果実は都人総称して水菓子といふ。桃・栗・梨・柿・蜜柑・林檎・枇杷・葡萄より苺の類まで多く、栗は目黒・雑司が谷の産著るしく、梨は大森の産名あり。台湾我版図に帰しより、甘蕉・竜顔肉・パインアップル等も輸入せられて水菓子屋の店頭に上るに至れり。(中略)
 飲食店・料理店・酢・汁粉・蕎麦粉・天麩羅・蛤鍋・牛肉・軍鶏・鰻等を始め、和様の料理屋に至るまで夥しきこと眼を驚かすばかりに、浅草・上野の広小路などには檐を列ぬ。著るしきは日本橋木原店にして、左右両側殆ど飲食店のみにて、何れも美味の評高かり。俗に称して食傷通または食傷新道といふ。明治三十年十二月の調査に拠れば、都下の料理店四百七十六軒、飲食店四千四百七十軒、嗜茶店百四十三軒、銘酒店四百七十六軒ありきといへり。(中略)
 軍鶏屋・牛肉屋・到る処になきはなく、或は相兼ぬるもあり。牛肉店の著るしきは四谷のオムレツ・カツレツ・ビフテキなども調進すめり。(中略)
 酒 酒屋はもと酒を売るを主とし特に客を延いて店頭に飲ましむることなし。其のこれあるは所謂縄暖簾にして、下賎なる力役者等が一杯の中汲に酔を買ふ所たり。(中略)洋酒の種類は、ビール・葡萄酒共に都下に醸造所ありて盛に製出せられ、愈用ひられ、其他舶載の品弥々輸入す。三十二年の夏の頃、新橋々畔にビーヤホールと称ふる飲食店開かれ、極めて簡便にビールのコップ売をなし、傍サンドウィッチ等を備へて、客の好みに応じて羞めしかば、俄にこれに習ふ者多く、到る処にこれ見ざるはなし。お手軽西洋一品料理などと招牌を掲ぐるもの皆この類にして、路傍の屋台店にも比類あるを見るに至れり。蓋し一時の流行たり」



史料
現代語訳や解説については下記を参考にしてください
『詳説日本史史料集』(山川出版社)
『精選日本史史料集』(第一学習社)
『日本史重要史料集』(浜島書店)
『詳解日本史史料集』(東京書籍)