(s1162)

「八幡製鉄所争議」

『溶鉱炉の火は消えたり』
「大溶鉱炉の火が落ちた。
 東洋随一を誇る八幡製鉄所、黒煙、天をおおい、地を閉ざしていた大黒煙が、ハタととだえた。それで、工都八幡市の息は、バッタリ止まった。
 死の工場、死の街。墓場。
 広袤七十余万坪、天を衝いて林立する三百八十本の大小煙突から吐き出される、永久不断にと誰もが思いこんでいた、黒、灰、白、鼠色の煙が、たたぬ、一と筋も立ち昇らない。延長実に百二十哩の構内レールを、原鉱、石炭、骸炭、銑鉄、鋼塊、煉瓦、セメント、等々、各種の原料と製品とを、工場から工場へ、引込線から引込線へ、埠頭から埠頭へと運ぶために、間断なく構内を駈け廻っている幾十輛の機関車から吐き出される煤煙も絶えた。
 煙のない煙都。卒塔婆の如く黙然とつっ立った大煙突!八幡は窒息した。
 ごうごうと鳴りわたる工場の大騒音。ボイラーの音、シャフトの声、調帯の唸り、ハンマーの鳴き、エンジンの呻き、轟き。炸裂する音、叩かれた音。音、声、唸り、響き、呻き、轟き、その全てが熄んだ。
 音なき大工場は、墓場だ。
 夜が来た。電燈が灯らない。溶鉱炉、平炉、転炉から九天に放射する火の柱はサット消えた。灼熱の鉱石は、溶鉄は、炉の底に、黒く、冷たく死んでいる。
 光がない。闇だ。真暗だ。
 火が消え、煙が絶え、音が熄んだ。火の町、煙の町、光の町、音響の町、八幡市は屍だ。
 何という寂しさだ。深海の真底の如き沈黙!
 電車も息を殺して靜かに歩む。道行く人の足音もない。人々はヒソヒソと囁く。
 八幡市は寂然たる逮夜だ。
 時は、大正九年二月五日。ストライキだ。二万の労働者は一斉に工場から出て行った」



史料
現代語訳や解説については下記を参考にしてください
『詳説日本史史料集』(山川出版社)
『精選日本史史料集』(第一学習社)
『日本史重要史料集』(浜島書店)
『詳解日本史史料集』(東京書籍)