(s1181)

「五・四運動」

『東京朝日新聞』
「大正八年五月六日付
北京に排日の暴動起り、親日派と目され居る曹交通総長初め前駐日公使陸宗輿氏及び最近帰国の章公使等の邸宅を襲撃し、章氏は負傷したりとの報あり。如何に公憤の発露なりとするも奇禍に罹れる諸氏に対しては気の毒の感に堪へず。支那人は平常温和の如きも悲歌慷慨の士乏しからず、とくに南方人士中に熱烈の人多く、加ふるに雷同性に富めるより、最初は理路整然たる討論も動ともすれば激越に流れ演壇に立つ弁士の如きも声涙共に下るは珍らしからず。(中略)今回の暴動其ものは巡警、兵士等の実力を有するものの加入し居らざるより暴動自身は直ちに鎮定すべきも、支那人一般に日本に対し非常なる反感を有する国辱記念日なる五月七日、即ち大隈内閣当時所謂二十一箇条の要求を貫徹する為め最後通諜を送りたる日近寄り、其際に前述の国民外交協会は大会を五月七日中央公園に開催し、山東問題に関して全国輿論の喚起を画策し居りたる際とて、今回暴動の余波が若し北京政府にて完全に抑圧されざるに於ては、再び同様の挙を繰り返さずとも限らず。又右暴動は巡警、兵士を以て抑へ得るとするも、支那一流の激烈な排日檄文電報の全国各要地に発せらるるは勿論なるべく、又中央政府も此 際に言論の自由まで束縛し得る事も容易ならざる事とて、決して楽観は出来ざる可し。殊に今回は巴里会議に於て日本の主張多く容れられず、山東問題の如き漸く通過したる状況にて、恰も日本は国際間に孤立の状態にある如く表面よりは観察せられ、支那委員の報告も動もすれば日本を軽侮し、英米委員の前にては日本委員は何事も為し得ざる如く報じ、又在支英米人は自己の利害より打算して陰に陽に排日思想を鼓吹し居れるより、世界の事情に暗き学生は此の機会に於て日本の勢力を打破するは易易たりと誤解したる点もある可しと思はる。要するに後報を待つに非ざれば何人も今後の成行に就て確言し難かるべし」



史料
現代語訳や解説については下記を参考にしてください
『詳説日本史史料集』(山川出版社)
『精選日本史史料集』(第一学習社)
『日本史重要史料集』(浜島書店)
『詳解日本史史料集』(東京書籍)