回答007

> 疑問というのは、赤穂浪士連の討ち入りの際における赤穂・吉良双方の
>武装のことです。彼らは刀、槍、弓を携えていたようですが、銃火器を持っ
>てはいかなかったのでしょうか? 吉良方にしてみれば、銃声で事が公に
>なれば何処からか庇護がもらえたかもしれないと思うのですが。江戸幕府
>から銃砲の所持や使用が禁じられていたのでしょうか。太平の世では銃火
>器が非常に高価なものになっていたのでしょうか。


 私自身も巷間の伝聞は排して、史料から忠臣蔵像を再構築しようと試みて
きましたが、史料の奥の視点も必要だということを教えられました。

 まず持っていったものを列挙します。鉄砲・大砲はありません。
 槍・長刀・野太刀・弓(戦闘用)、まさかり・かけ矢(門扉の破壊用)、
竹梯子・取鈎長細引付(門を乗り越える)、玄のう・大鋸・金手子・木手子・
金突(破壊用)、かすがひ・かなづち(長屋の小門や戸障子を打ち付ける)、
その他玉松明・ちゃらめるの小笛・かんとう釣燈・鉦・水溜大張籠など
(『寺坂信行筆記』と『浅野長矩伝附録』ともほぼ同じ内容)

 次に『諸士法度』の条文をみると、「…弓鉄砲鑓…相違なき様之を嗜む
べき之事」とあります。
 東大史料編纂所の進士慶幹氏の著書『江戸時代の武家の生活』には
「夏には土用のうちに鉄砲の稽古をする」とあります。
 以上から武士の嗜みとして鉄砲を練習することは日常的であったことが
わかります。

 次に内匠頭が切腹した後、「城備え付けの諸道具は龍野の脇坂公などの
渡す。個人の物は自由に処分してよい」という幕府の命令が出ました。それ
を受けて赤穂藩士は大砲などを大坂の町人に「高額」で売り払ったことが、
岡山藩の忍びの記録にあります。
 赤穂藩士も「飛び道具」を所持していたことは確かです。

 では何故使用しなかったのかというと、「入鉄砲に出女」と言われる関所の
役目から、江戸には搬入できなかったという事が言えます。
 それ以上に、内蔵助の考えは幕府への反逆ではなく、「喧嘩両成敗」という
武士の法を幕府に実行してもらうことですから、最初から「飛び道具」は念頭に
なかったと思われます。

 ご存じだとは思いますが、刃傷後の取り調べでは内匠頭の乱心として上野介
を公費で治療していますが、後に喧嘩として吉良家の私費で治療させています。
幕閣は喧嘩両成敗という法の立場をとったのに、将軍は勅使接待という晴舞台
を汚したという私的な感情で処分しています。内蔵助は主君のために再度法に
よる裁きを主張したといのが私の立場ですが、如何でしょうか。

 今まで色々な疑問がありましたが、今回は私もとても勉強になりました。
あなたの考えを聞かせて頂ければ、幸甚です。
 今後ともよろしくお願いします。