回答011

>内匠頭刃傷の第一報を赤穂に伝えた早水・萱野は、
>なぜ早駕籠を選んだのか?
>その後の第二報以後もなぜ早駕籠なのか?

>それとも、当時の法律かなにかで、
>馬は、使えなかったのでしょうか?
>メールをお待ちしております。

 このような疑問は実は「星の子」さんが最初で、
私自身も考えてもいませんでした。早速、色々な
書物に当たってみても、ほとんどそのことに触れずに
早駕籠を使ったという事実を述べているだけでした。
一部には「生類憐みの令」によって早馬が禁止されて
いたからだという「憐れ」な説もありました。

 私が理解しているのは以下のとおりです。
(1) 「   定
  一 此御朱印なくして伝馬出すべからずものなり、仍件の如し
     慶長六年正月 日」
 朱印(将軍)の許可がなければ、伝馬は使用できない。

(2)文政5年7月、信州高遠藩主内藤大和守が大坂番役として
大坂に赴任することになりました。家来23人および武器輸送
のため人足四十七人と馬7疋を雇うことを道中奉行に問い合わ
せている。それに対して道中奉行はそれを御用旅行と認めて
人馬の使用を許可した。

 この二点から推測して、幕府は治安のために馬の使用に
神経を使っていた。許可するにはかなり時間を要する。
そのため急を要する場合には当時の人は早駕籠を利用した
といえる。早駕籠についての規制は見あたらない。

 しかし、私としても早駕籠を使ったという事実を史料を使って
納得したく思います。今急を要する仕事を3つ抱えており、それを
解決次第、この古くて新しい課題に取り組みたく思います。是非
ご協力下さい。