質問011
初めまして。 私は「忠臣蔵」にとても興味を持つ者です。 次のようなテーマで論文を考えています。 ずっと疑問と思っていた事がございます。 貴殿のホームページを拝見しましたゆえ、ぜがひとも、お 伺いしたいと思いメールを出しました。 私なりに、色々と調べはしたのですが、今だに、謎です。 内匠頭刃傷の第一報を赤穂に伝えた早水・萱野は、なぜ 早駕籠を選んだのか? その後の第二報以後もなぜ早駕籠なのか? 第一報が江戸を出発したのは14日午後5時頃、赤穂に着 いたのが、5日後の19日午前6時頃、所要時間は4日と13時 間になります。江戸〜赤穂間は、約650kmですので、計算 すると、時速6kmで駆け抜けた事になります。 火急の事態を知らせるのであれば、一刻も早く知らせたい。 ならば、馬を選ぶべきではないでしょうか? 耐久力の問題もあると思いますが、それを考慮してもまだ、 早駕籠よりも馬の方が、早い!と思います。 早駕籠で、宿駅ごとにかつぎ手を交代して、走ったらしいで すが、この方法ならば、馬でも同じ事です。馬でも交換して走 れば、人間が走るより遥かに早く赤穂に到着した事でしょう。 いかがでしょうか? それとも、当時の法律かなにかで、馬は、使えなかったので しょうか? メールをお待ちしております。 質問者 kazutosi |