水守「小さな菜畑」文学碑(『相生と文学碑』より)

▽大山郁夫
 明治十三年(1880)九且生。上郡町大持医師福本剛策の次男。大鳥圭介は父の伯父。五男武雄は医師で元相生市長。後相生市に移る。早稲田大学政治経済学科卒、シカゴ大学に三年間留学、大正三年早稲田大学教授。紛争により大学を去り六年大阪朝日新聞論説記者。連袂辞職後九年大学に復帰。大山は早稲田大学に拠った杉本孝次郎らと官学的な国家学に対して、政治現象の実証的把握と分析によって「社会法則」を探求して「科学としての政治学」を樹立しようと、大正年代の後半に活発な学問的活動を展開し、政治学の進展に一時期を画した。大学を退職後労働農民党・労農党の委員長、衆議院議員に当選したが政治的に孤立し、昭和七年米国に政治亡命、廿二年帰国。廿八年国際スターリン平和賞受賞。三十年(一九五五)十一月歿。七十五歳。著書『大山郁夫全集』全五巻。

▽除幕式
 娘輝子に代り孫鈴木洋一・妻久子・曾孫(在東京都)が列席。従妹富山マツノ・洋一・久子・曾孫が除幕。地元自治会の協力を得た。矢野川中学校生徒が亀之助作詞『若狭野学校校歌』を斉唱。

▽大鳥圭介先生(銅像銘)在上郡町役場前庭
大鳥圭介先生顕彰会建

 顕彰のことば 正二位勲一等男爵大鳥圭介先生 緯は純彰 赤穂郡岩木の人 天保三年(1832)二月二十八日父真輔母節子の長子として生れる幼にして穎悟(さとい)稍長じて岡山藩閑谷黌に漢学を修める嘉永五年(1852)家業の医をもって立つべく大坂の緒方洪庵に蘭学を学ぶ 同門に福澤諭吉らの俊英多く
学大いに進む 時あたかも黒船の来航を聞く 時局の急迫を明察し江戸に上る 近代兵学を究めて江川担庵塾に武を講じ かたわら英学を修める 令名すでにあまねく徳川幕府に迎えられて歩兵奉行となる慶応四年(1868)大政は奉還されたが幕臣和戦の両論に分かれて江戸は騒然 ついに立って榎本武揚らと北海に奔り旧恩に殉ずる 函館五稜郭に戦敗れて共に帰順 詩を賦して自ら省みる
 閲来スレバ世運幾遷更 今日ノ零丁何ゾ驚クニ足ラン
 誰力正誰力邪強ヒテハ辮ゼズ 丹心千載人ノ評ニ任カス
 明治五年(1872)特に赦され大蔵少丞を拝命して米英に使いする 帰って後は再び兵を語らずひたすら興業に尽し育英のことに励む すなわち元老院議官
内国博覧会御用掛 工部大学校 学習院長などを歴任して斯界に重きをなす 明治二十二年(1889)清国特命全権公使に兼ねて朝鮮駐剳(駐在)公使に任ぜ
られ 風雲ようやく急を告げる 隣邦に在ること五年有余 果断明決よく使命を全うする
 にしひがし国こそかはれかはらぬは人の心の誠なりけり

 明治二十七年(1894)帰朝枢密顧問官に任ぜられて国政の枢機に参画出でては侃諤(剛直デ言ヲ曲ゲヌ)の論をなし 入りては国府津の風光を友とする
晩年は悠々自適して明治四十四年(1911)六月十五日波瀾多い栄光の生涯を終わる 時に齢七十九
 大鳥先生は天稟の才を実学によって磨き徳をもって師表となる 憂国の志篤く栄達を求めず至誠よく世を導く その高風清節は万人のひとしく欽迎するところ 先生を敬慕する郷土の至情は町民をあげての顕彰会となり ここに明治百年を記念して銅像を建立する 千種川のほとり故山を望むその英姿は崇くその遺徳は永遠に輝くを信ずる
 昭和四十五年十一月三日 題字兵庫県知事金井元彦書
 (有年牟礼)松井利男撰 (八洞)西本廣書

◇冬日寒暁ノ作  漢詩 如楓
 風馨淅瀝トシテ暁寒雄ナリ 醸雪凍雲凝ッテ融ケズ
 昨夜分明郷里ノ夢 醒メ来レバ身ハ檻窓ノ中ニ臥ス

◇小春狂花 漢詩(明治二十二年) 為石堂君 如楓圭介
 林楓ニ雨散ジ窓ニ灑イデ紗ナリ 籠菊霜ヲ帯ビテ幾朶斜ナリ
 美晴春ノ如ク四園静ナリ 都門又看ル不時ノ花
◇ 著書『南村紀行』『大鳥圭介自伝』