(9) 寺坂吉右衛門の役割
史料16「大石三平より、上野介殿御事今日帰宅成られ候由聞付、早速告来候
(10) 討ち入りから切腹まで(後に人気沸騰した場合→史料の散失)
庶民の支持→庶民段階での史料の保存(史料17「江戸中之手柄ニ御坐候」)
一般人の高い関心→全国的な史料の保存
史料18「吉良上野介首ヲ取リ芝専岳寺江立退」(『鸚鵡篭中記』
内蔵助らを預かった大名らの賛辞(史料19「十七人の勇士共」)→詳細な史料の作成
(11) 四十六士の処分
徒党は獄門(高田郡兵衛の伯父
史料20「五人以上申合仕儀ハ既ニ徒党、後日一家及ビ滅亡候義必定也」
切腹の背景
@寛大派−林信篤、浅見絅斎、室鳩巣
史料21「君仇吉良上野介殿を討取申候儀、前代未聞、忠義の気凛々。
 赤穂士風之厚も是に而相知れ・・・。
 当地なども此儀のみ沙汰仕候。其御地(京都)輿論いかが候哉」
A処分派−太宰春台、佐藤直方、荻生徂徠
史料22「士の礼を以て切腹に処せらるるものならば、上杉家の願も
 空しからずして、かれらが忠義を軽るんぜざるの道理、もっとも公論と云うべし」 
B庶民・学者の支持で綱吉は苦悩→「義は義、罪は罪」とし、士の礼をもって切腹を命令
C47士の処分決定
史料23「内匠家来四十六人徒党致、上野を討候儀、重々不届候、依レ是切腹申付者也」
D吉良処分
史料24上野介を討候節、其方仕形不届に付領知被召上、諏訪安芸守へ御預被仰付候」
【2】人気の秘密
(1) 刃傷から討ち入りまでのドラマチックなストーリー性→『仮名手本忠臣蔵』の成立)
元禄13(1700)年12月、徳川光圀没
元禄14(1701)年03月、刃傷事件
元禄15(1702)年03月、江戸の山村座では、刃傷事件を扱った『東山栄華舞台』を上演
元禄15(1702)年12月、討ち入り事件
元禄16(1703)年01月、近松門左衛門『傾城三の車』を上演→幕府は、上演を禁止
元禄16(1703)年02月、大石内蔵助ら武士として切腹切腹、吉良家の断絶(喧嘩両成敗の完成)
宝永06(1709)年01月、綱吉没。遺言「生類をあわれむ事、100年の後も、維持すること孝」
宝永06(1709)年01月、憐み令廃止(黄門ができないことを内蔵助がする)
宝永07(1710)年06月、大坂の竹本座で、近松門左衛門『碁盤太平記』を上演
 高師直(吉良義央)、塩冶判官(浅野内匠頭)、大星由良之助(大石内蔵助)らが登場
10 寛延01(1748)年08月、大坂の竹本座で、人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』を上演→4カ月の長期興行
11 寛延02(1749)年02月、江戸の森田座で、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』を上演
(2) 多くの登場人物(いろいろなキャラクターの存在)→判官びいき(耐えに耐える)
(3) 内蔵助の作戦勝ち(最後の裁きを幕府に預け→喧嘩両成敗)
(4) 最大の要素は、当時から庶民が支持→豊富な一級史料の存在→色々な解読→新解釈