松尾芭蕉が「花の雲 鐘は上野か 浅草か」とよんだ上野の時の鐘
写真提供(有賀泰三氏
八ツ半を3時、3時30分と解釈
寅の上刻を3時40分頃、4時と解釈
江戸の時刻を現代風に理解する過程で混乱?
 14日の午前0時前の出来事です。
(1)五ツ半(20時)、大石内蔵助らが小山屋を出立しています。
(2)九ツ前(0時前)、吉田忠左衛門らが堀部弥兵衛宅を出立しています。
 14日の午前0時〜午前1時までの出来事です。
(3)九ツ(0時)、大石内蔵助らが堀部弥兵衛宅を出立しています。
(4)子の刻(0時)、大石内蔵助らが堀部安兵衛宅へ集合します。
(5)この頃、吉田忠左衛門らが亀田屋へ集合します。
(6)九ツ半(1時)、大石内蔵助らが堀部安兵衛宅へ集合します。(4)と内容は同じですが、1時間の差が生じています。
(7)丑の上刻(1時)、赤穂浪士が各々三か所に集合します。

 14日の午前1時〜午前2時までの出来事です。
(8)八ツ前(2時前)、吉田忠左衛門らが堀部安兵衛宅へ集合します史料(19)
(9)八ツ過(2時過)、集合時刻になり、赤穂浪士が堀部安兵衛宅・杉野十平次宅・前原伊助宅に集合しました。

 14日の午前3時〜午前4時までの出来事です。
(10)八ツ半(3時)、赤穂浪士が前原伊助宅を出立します。
(11)八ツ半(3時)、なんとこの時間に吉良邸を襲撃しているという史料があります史料(1)
(12)八ツ半過(3時過)、赤穂浪士が吉良邸を襲撃する史料(13)
(13)八ツ半(3時30分)、赤穂浪士が吉良邸を襲撃する史料(14)
(13)寅の一天(3時30分頃)、赤穂浪士が吉良邸を襲撃する。
(14)寅の上刻(3時40分頃)、赤穂浪士が前原伊助宅を出立します史料(2)
(15)七ツ前(4時前)、赤穂浪士が前原伊助宅ら三か所より出立します史料(2)
(16)寅の刻(4時)、赤穂浪士が討入服装に着替える。
(17)寅の上刻(4時)、赤穂浪士が吉良邸を襲撃する。
(18)七ツ頃(4時頃)、赤穂浪士が吉良邸を襲撃する史料(6)史料(7)
(19)八ツ過(4時過)、赤穂浪士が吉良邸を襲撃する史料(15)

引き上げ時間は
上杉家の動向を考える上で重要
 14日の午前4時〜午前5時までの出来事です。
(20)七ツ前(4時前)、赤穂浪士が吉良邸を襲撃する史料(16)
(21)七ツ前(4時前)、赤穂浪士が前原伊助宅を出立します史料(4)
(22)七ツ(4時)、赤穂浪士が吉良邸を襲撃する史料(17)
(23)七ツ(4時)、吉良邸の隣の豆腐屋が異変を感じて上杉家に向かう。
(24)七ツ過(4時過)、赤穂浪士が吉良邸を襲撃する史料(8)
(25)七ツ過(4時過)、赤穂浪士が吉良邸に向けて出立します史料(3)
(26)寅の上刻(4時過)、赤穂浪士が前原伊助宅を出立します。
(27)4時40分、吉良邸の隣の豆腐屋が討入りの第一報を上杉家に報告します。
(28)七ツ半(5時)、吉良邸の隣の豆腐屋が討入りの第一報を上杉家に報告します史料(1)
(29)七ツ半(5時)、吉良家の丸山清左衛門が討入りの第二報を上杉家に報告します。
(30)寅の下刻(5時前)、赤穂浪士が吉良邸を引き上げ、回向院に向かう史料(2)

上杉家、討ち入り情報を5時に入手
上杉家、1時間後の6時に先発隊40人を派遣
その謎は?
 15日の午前6時〜午前7時までの出来事です。
(31)六ツ前(6時前)、吉良家の丸山清左衛門が討入りの第二報を上杉家に報告する史料(11)
(32)六ツ前(6時前)、赤穂浪士が吉良上野介を討つ。
(33)六ツ前(6時前)、赤穂浪士が回向院で開門を呼びかける。
(34)六ツ(6時)、赤穂浪士が引き上げを開始する。
(35)六ツ頃(6時頃)、上杉家の野本忠左衛門が赤穂浪士の討入りを知る史料(1)
(36)寅の下刻(6時頃)、赤穂浪士が吉良邸の裏門から出る。
(37)六ツ過(6時過)、赤穂浪士が宮津奥平家前を通過する史料(5)
(38)六ツ過(6時過)、赤穂浪士が引き上げを開始する。
(39)この頃、上杉家の物見2人が吉良邸に派遣される。
(40)この頃、さらに上杉家の先発隊40人が吉良邸に派遣される。

戦闘2時間の浪士が早足で2時間で泉岳寺は可能か?
負傷している浪士をどう扱うのか?
 15日の午前7時〜午前8時までの出来事です。
(41)六ツ半(7時)、先発隊40人が引き返してきた物見2人と出会い、赤穂浪士の引き上げを知る。
(42)六ツ半(7時)、上杉家の野本忠左衛門が吉良邸に着く史料(1)
(43)六ツ半(7時)、幕府が鎮撫使として高家を上杉家に派遣する。
(44)この頃、吉田忠左衛門らが大目付の仙石伯耆守邸へ自訴する。
(45)辰の上刻(7時半頃)、吉田忠左衛門らが大目付の仙石伯耆守邸へ自訴する。
(46)五ツ(8時)、仙石伯耆守が「吉良邸討ち入り事件」を報告するために登城する。
(47)五ツ(8時)、上杉家の当主上杉綱憲も登城する。
(48)辰の刻(8時頃)、赤穂浪士が泉岳寺に着く。
(49)五ツ過(8時過)、赤穂浪士が泉岳寺に着く史料(2)
(50)この頃、上杉家の捜索隊が四方に散る。

大石内蔵助は、厳寒の室外で、不動で、2時間も指揮出来るか?
引き上げ5時、泉岳寺着8時が最も合理的
 15日の午前9時の出来事です。
(51)五ツ半前(9時前)、吉田忠左衛門らが大目付の仙石伯耆守邸へ自訴する。
(52)五ツ半(9時)、赤穂浪士が泉岳寺に着く。
(53)五ツ半(9時頃)、赤穂浪士が泉岳寺に着く。
(54)五ツ半(9時頃)、吉田忠左衛門らが大目付の仙石伯耆守邸へ自訴する。
(55)五ツ半過(9時過)、赤穂浪士が泉岳寺に着く。

引き上げが時間が5時、自訴が8時、登城に出立が9時、
寺社奉行の報告が10時過ぎ、協議・帰宅が12時というのが自然
 15日の午前10時〜正午12時までの出来事です。
(56)巳の刻(10時)、赤穂浪士が墓所より泉岳寺本堂・衆寮に移動する。
(57)四ツ過(10時過)、赤穂浪士が泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に、吉良上野介の首級を供える。
(58)四ツ過(10時過)、赤穂浪士が墓所より泉岳寺本堂・衆寮に移動する史料(9)
(59)この頃、泉岳寺の酬山和尚が寺社奉行に報告する史料(9)
(60)九ツ(11時)、墓前での焼香が終わる。
(61)九ツ(11時)、幕府の検視が吉良邸に着く。
(62)この頃、幕府の鎮撫使が上杉邸に着く史料(12)
(63)九ツ半(12時)、大目付の仙石伯耆守が登城より帰宅する史料(2)
(64)午の刻(12時)、伊予の松山藩主の松平定直にお預けの奉書が届く。

細川家に「赤穂浪士受取命令」が届いたのが22時、
その前に仙石邸での約2時間取り調べ
赤穂浪士が仙石邸に着いたのは20時前
 15日の午後14時〜午後23時までの出来事です。
(65)八ツ(14時)、幕府の検視が吉良邸に着く。
(66)八ツ過(14時過)、幕府の検視が吉良邸に着く史料(11)史料(12)
(67)申の刻(15〜17時)、伊予の松山藩主の松平定直にお預け時刻変更の奉書が届く。
(68)八ツ半過(15時)、幕府の目付が大石内蔵助らに仙石邸移動を申し渡す史料(2)
(69)申の上刻(15時半)、泉岳寺でが赤穂浪士にお粥を振る舞う。
(70)七ツ半(16時)、幕府の目付が大石内蔵助らに仙石邸移動を申し渡す。
(71)申の上刻頃(16時頃)、赤穂浪士が泉岳寺が供応したお粥を食べ終わる史料(9)
(72)六ツ(18時)、赤穂浪士が泉岳寺を出て、仙石邸に向かう史料(9)
(73)六ツ頃(18時頃)、赤穂浪士が泉岳寺を出て、仙石邸に向かう。
(74)六ツ半(19時)、赤穂浪士が仙石邸に着く。
(75)五ツ(20時)、赤穂浪士が泉岳寺を出て、仙石邸に向かう。
(76)五ツ過(20時過)、赤穂浪士が仙石邸に着く史料(18)
(77)戌の上刻(20時頃)、赤穂浪士が仙石邸に着く史料(10)
(78)戌の下刻(21時頃)、赤穂浪士が仙石邸に着く史料(2)
(79)四ツ過(22時過)、幕府から細川家に、「赤穂浪士受取命令」が届く史料(18)
(80)九ツ時分(23時頃)、細川家の受け取り役人が仙石邸に着く。
(81)九ツ(23時)、赤穂浪士を四家に引き渡す。

深夜2時、
赤穂浪士は四家に着く
 15日の午前1時〜16日の午後17時までの出来事です。
(82)牛の刻(1〜3時)、赤穂浪士の17人が細川邸に着く。
(83)八ツ(2時)、赤穂浪士が四家に着く。
(84)八ツ(2時)、幕府の検視が吉良邸に着く。
(85)八ツ過(2時過)、赤穂浪士が四家に着く史料(18)
(86)酉の刻(17時過)、泉岳寺より吉良上野介の首級が吉良邸に届く

参考資料
*1 大河原文書 *6 討入り実況報告書 *11 野本忠左衛門書状 *16 土屋主税調書
*2 江赤見聞記 *7 礒貝富森両人覚書 *12 米沢塩井家覚書 *17 本多孫太郎家来調書
*3 小野寺十内書簡 *8 小野寺書状 *13 吉良家口上書 *18 細川家御預人始末記
*4 寺坂私記 *9 白明話録 *14 吉良家来口上書 *19 寺坂筆記
*5 宮津家文書 *10 原惣右衛門手簡 *15 栗崎道有日記

十二支
夏至
春分
秋分
冬至
現在
江戸時代の日替・時刻の見方

 日が昇る頃を明け六ツといいます。
 日が沈む時を暮れ六ツといいます。
 同じ九ツでも夏は長く、冬は短い。
 明け六ツと暮れ六ツの間を12等分すれば、
当然、夏はその間隔が長く、冬は短くなります。
 暮れ六ツから明け六ツまでの間隔が逆に、
夏はその間隔が短く、冬は長くなります。 

(1)「十四日寅の上刻吉良上野介殿屋敷え罷
越候」
14日午前4時前吉良邸へ押しかけました)
(2)「十四日七ツ過に打立て敵の方へ押寄候」
14日午前5時過ぎに吉良邸に押し寄せました)
(3)「十五日之朝五ツ過ぎ四十六人・泉岳寺へ」
15日朝8時過ぎ46人が泉岳寺へ参りました)
 これより、明け六ツから日が替わり、翌日の
明け六ツまでを1日
としていることが分かります。