| 徒目付 郡目付 五石(役料)五両三人扶持 行年三十八才 与五郎は美作の出身で、父のあとを嗣いで津山城主森美作守に仕えていた。 元禄十年に森家の断絶に遭い浪人となった。一説には、父の半右衛門のとき既に浪人になっていたともいわれる。 ともかくも与五郎は播州へ来て赤穂藩浅野家に仕官し、五両三人扶持を賜わり、役料として五石、横目付に任じられた。 与五郎は文武両道に秀れ、好んで書を読み、詩を賦し、歌を詠じ、俳句を吟じた。特に俳句では号を江農舎竹平と称し、子葉(大高源五)、涓泉(萱野三平)と共に水間沽徳に師事し、赤穂藩の俳諧三羽烏とも称せられた。 元禄十四年の浅野家断絶の際には浅野家に仕えて漸く五年の新参音であり、扶待も五両三人の至って微禄者であったにもかかわらず、最初から義盟に加わった。 開城後は、城下より三里ばかりの那波(現在の相生市)に隠棲して時節の到来をまった。この時有名な『那波十景』の秀句を残している。 元禄十五年春、与五郎は内蔵助の命をうけて江戸に下った。その道中箱根の山中で、馬方の丑五郎に無礼ないいがかりをつけられたが、なるが勘忍するが勘忍と『カンザケヨカロウノリガヤスイ』の詫状文を書いてあやまった話は有名である。これも講談の義士銘々伝であろう。 江戸に出てから与五郎は美作屋善兵衛と名乗り、扇子売りの行商に扮し、上杉屋敷の偵察を行っていた。 のち、前原伊助が相生町三丁目に米屋五兵衛と名乗って商をしているのに合流して、小豆屋善兵衛と名乗り変え、安売り餌に近く吉良邸の女中や奉公人と親しく近づき、邸内の様子などを聞きだした。 また吉良邸の前住者松平登之助時代の絵図面を手に入れてからのちは、それをもとに屋敷内の概略を知ろうと、火事だといえば屋根にかけのぼり、大雨といっては物干台に上って吉良邸を見下し、絵図面をとり出しては訂正したという。 また上野介が、屋敷の中に居るか居ないかを確かめるため、上野介の乗物に違いないと思われる駕篭に出喰わすと、わざわざ上下座をして面体を確めたという。これは当時の習慣で、ある家中の者が、主家の親類の主人に路上で遭った時、土下座の礼をとれば、相手は乗り物の戸を開けて礼を返すことになっていたので、これを利用したのである。 討入りの夜、与五郎の借宅は浪士一同の集合場所の一となっ た。与五郎は 梓弓春ちかければ小手の上の雪をも吹雪とや見ん と詠じて出発した。表門隊に属し、矢頭右衛門七ら六人と屋外にあって、屋敷や長屋から出てくる吉良方に弓を射かけて奮戦した。 のち水野監物家にお預けとなり、九人の最後に腹掻き切って相果てた。 (詳しくは大石神社社務所発行『実証義士銘々伝』を参照) |