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明石人骨(06)
 いわゆる「明石原人」は、1931(昭和6)年、当時アマチュア吉牛物学者でなおらにしやぎあった直良信夫によって発見された。彼が兵庫児明石の西八木海岸で発見したのは、人類のかんこつ寛骨(骨盤の一部)と見られる化石のように重い骨であった。直良は、発兄当時の思い出を1口1顧し、「体のふるえがしばしとまらなかった。ながい歳月、夢にまでえがいたその人骨を手にしたとき、久しいあいだの苦労が一瞬にしてふっとんだような気がした。」(『口本の誕生』)と述べている。彼は、東京帝国大学人類学教室にこの骨の研究を依頼するが、人骨の形態学せ1こう的な判断は保留され、写真と石膏模型が作られただけで直良のもとに返された。その後、寛骨は太平洋戦争巾の空襲によって焼失してしまった(1945年5月)。
 戦後の1948(昭和23)年、残されていた写真と石膏模型をみた東京大学人類学教室の長谷部ことんど言人は、この寛骨に原始的特徴を認め、北京原人と同等の進化段階にある更新世人類のもの(直良自身はこの骨を1日人のものと考えていたが)としてNipponanthropusakashiensisと命名し、これによって「明石原人」の存在は学界にも認められるようになった。
 その後、1982(昭和57)年、遠藤萬里・馬場悠男は寛骨のコンピュータ計測処理によって明石人骨は縄文時代以降に属する人類のものであり、現代でも80人に」人は同じような骨を持っているという新説を発表し、「明石原人」説を否定した。遠藤・馬場の説に対しては、骨が化石化していたことなどの点から批判が寄せられ、1985(昭和60)年には西八木海岸の発掘調査が行われた。調査では、明石人骨が出土したとされる砂礫層から多くの木片が出土し、放
射性炭素年代測定法では5−6万年前と測定されている。これによって、明石人骨が新人段階のものであるという可能性は残されることとなったが、馬場・遠藤は、港川人骨との違いからすでにこれを否定している。いずれにせよ、日本の吏新世人類の化石骨は少なく、明石人骨の年代をめぐる論争にはまだ決着がついていない。