いざ討ち入りへ
『赤穂義士誠忠畫鑑』より |
元禄15(1702)年12月14日(東京発) |
脱盟者も誰一人密告せず |
大石内蔵助は、討ち入りの備えて、同志の淘汰していきました。 ここで不思議なことは、色々口実を設けて脱盟していった者は多数に上りましたが、誰1人として、内蔵助らの討ち入りを密告した者がいないということです。 彼らも陰の協力者と言えるのではないでしょうか。 |
主君浅野内匠頭の無念を引き継いで 大石内蔵助らは吉良邸に討ち入る |
浅野内匠家来口上 |
浅野内匠家来口上を見ると、大石内蔵助らの討ち入り理由がよく分ります。 井沢元彦氏は、「本当は浅野内匠頭が乱心だったのを、宿意(積み重なった恨み)にしてしまったことを怒って、討ち入りした」と暴論を展開しています(『文治政治と忠臣蔵の謎』)。 しかし、口上を読むと、「主君浅野内匠頭は、梶川与惣兵衛が組みとめたので、吉良上野介を討ち取ることが出来なかった。主君の恨みを晴らしたいだけです」とあります。 つまり、乱心と言えば、お家は安泰の時代に、身を捨て、家を潰してでも、宿意を果たそうとした意志を継いだのです。 |
吉良上野介の北隣の証言”何も知りません” 両者は、どんな関係だったのでしょうか |
@堀部安兵衛宅A杉野十平次宅B前原伊助宅C土屋邸D本多邸E鳥居邸F牧野邸 |
討入り後、幕府役人が吉良邸周辺の旗本を尋問しました。 それに対して、吉良邸の北隣の旗本である土屋主税は、「火事装束の様に見えましたが、暗かったのでよく分りませんでした。これ以外は何も存じません」と答えています。 土屋主税は、火事装束は確認しています。しかし、討ち入りを知っていて、何もしなかったら、責任を問われかねないので、「何も存じません」と責任逃れの答弁をしています。 隣の吉良上野介とどんな関係だったのか不思議な気がします。 |