1659(万治2)年、大石内蔵助は、赤穂で誕生しました。千種川の水を産湯に使っています。
1665(寛文5)年、幕府を批判した山鹿素行(45歳)が赤穂に流されてきました。内蔵助(8歳〜17歳)。
1701(元禄14)年、刃傷事件により、赤穂城が断絶となりました。地元に人は藩札の処理をめぐって感動し、内蔵助らの行動を支援したといいます。大石内蔵助が赤穂を去ったのは、43歳の時でした。