| 挿絵:丸山末美 |
| 出展:『相生市史』第四巻 |
| 参考資料(1) |
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| <!DOCTYPE HTML PUBLIC "-//IBM//DTD HPB HTML//EN"> <HTML> <HEAD> <TITLE>相生市の伝説(01)-和泉式部と小式部</TITLE> <META name="GENERATOR" content="IBM HomePage Builder V3.0 for Windows"> </HEAD> <BODY bgcolor="#ffffff"> <P align="center"> <IMG src="15tt.jpg" height="67" width="306"> </P> <CENTER> <TABLE width="702" height="863" border="0"> <TR> <TD colspan="2" align="center" bgcolor="#008040"><B><FONT size="+1" color="#ffffff">(01)和泉式部と小式部</FONT></B></TD></TR> <TR> <TD align="left"><IMG src="15ah.jpg" height="368" width="400"></TD> <TD align="left"> 和泉守の橘道貞(たちばなのみちさだ)の妻である和泉式部は、上東門院に仕えていました。小式部が生まれた時は、橘道貞はこの世にはいませんでした。 そこで和泉式部は小式部を捨て子にしました。後のことを考え、小式部に絹に包ん守本尊(まもりほんぞん)を持たせ、絹の半分は自分が持ちました。<BR> たまたま、京に上っていた播磨国若狭野村の長者五郎大夫は、捨て子を拾い上げました。<BR> やがて、和泉式部の名声が高くなり、心に余裕が出ると、思い出されるのが小式部のことでした。ある時、上東門院(じょうとうもんいん)が播磨書写山に参詣する機会がありました。<BR> 参詣を終えた和泉式部は、小式部の行方をあちこち尋ねて、若狭野村の雨内にやってきました。その時、時雨にあったので、栗の木の下で、雨宿りをしている時に歌を詠みました。<BR> <B>苔むしろ 敷島の道に 行きくれて 雨のうちにし 宿る木のかげ</B></TD></TR> <TR> <TD colspan="2" align="left"> この歌を詠むと、たちまち栗の枝が傘の形に垂(た)れて、雨が体にかかるのを防いでくれました。そこで、人々はこの栗の木のことを「宿り木の栗」「雨宿りの栗」と言い伝えるようになりました。<BR> 和泉式部は、若狭野村の長者五郎大夫に頼んで一夜の宿をとりました。その時、五郎大夫の娘が綿を摘(つ)み揃えているのを見て、自分の捨てた娘と同じ年頃の娘であることが、懐かしく思えて「その綿売るか」と尋ねると、五郎大夫の娘は<BR> <B>秋川の 瀬にすむ鮎の 腹にこそ うるかといえる わたはありけれ</B><BR> と歌を詠んで答えを返しました。和泉式部は、「あな子女がよく詠みたり」と褒めると、五郎大夫の娘は<BR> <B>秋鹿の 母その柴を 折り敷きて 生みたる子こそ こめか(子女鹿)とはいえ</B><BR> と歌を詠んで答えを返しました。<BR> この即妙の歌に感じ入った和泉式部は、五郎大夫の娘の身の上を尋ねてみると、自分の子の小式部らしい。そこで、五郎大夫が持っている半切れの絹と、和泉式部が持っている半切れの絹を継ぎ合わせると、地紋(じもん)もぴったりと合い、その上に、守本尊も所持していました。</TD></TR> <TR bgcolor="#008040"> <TD rowspan="2" align="left"> <CENTER> <TABLE> <TR> <TD align="center"><B><FONT size="+2" color="#ffffff">相生市若狭野町雨内</FONT></B></TD></TR> <TR> <TD align="center"><A href="http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=34%2F49%2F26.606&lon=134%2F25%2F18.57&layer=0&sc=3&mode =map&size=l&pointer=on&p=&CE.x=534&CE.y=376"><IMG src="maps.jpg" height="40" width="234"></A></TD></TR> <TR> <TD align="center"><B><FONT color="#ffffff">「YAHOO地図情報」をクリックすると、</FONT></B></TD></TR> <TR> <TD align="center" valign="top"><FONT color="#ffffff"><B>現地の詳細地図</B></FONT><IMG src="mark01h.jpg" align="top" height="16" width="20"><B><FONT color="#ffffff">が表示されます</FONT></B></TD></TR> </TABLE> </CENTER> </TD> <TD align="left"><IMG src="15bh.jpg" height="225" width="300"></TD></TR> <TR bgcolor="#008040"> <TD align="center"><B><FONT color="#ffffff">和泉式部石碑</FONT></B></TD></TR> <TR> <TD colspan="2" align="left"> この娘こそ十三年前に捨てた我が子に間違いない。和泉式部は、非常に喜び、五郎大夫に小式部を返して欲しいと懇願(こんがん)しました。しかし、長者の夫婦も長い間、いつくしみ育てた可愛い娘であるから、なかなか承知しませんでした。<BR> しかし、和泉式部の必死の願いに心打たれて、長者夫婦は、娘を返すことを承知しました。そして、和泉式部と小式部は、めでたく親子の名乗りをあげ、京に帰ることになりました。<BR> その後、小式部も、上東門院に宮仕えしました。<BR> 小式部が詠んだ有名な歌は<BR> <B>大江山 生野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立</B><BR> です。百人一首に選ばれています。<BR> 和泉式部が小式部に持たせた守本尊は、若狭野村の薬師堂の本尊といわれています。</TD></TR> <TR> <TD colspan="2" align="left"> <HR noshade size="5"> <B><FONT color="#ff00ff">参考資料1</FONT></B>:上東門院(988〜1074年) は藤原道長の長女の藤原彰子の院号です。藤原彰子は一条天皇の中宮・後一条天皇・後朱雀天皇の母親です。<BR> <B><FONT color="#ff00ff">参考資料2</FONT></B>:和泉式部(?〜?)。橘道貞との間に小式部をもうけました。為尊親王や敦道親王とも恋をしたことで有名です。また、中宮藤原彰子(上東門院)の女房となっています。</TD></TR> </TABLE> <CENTER> <TABLE width="700"> <TR> <TD align="center" bgcolor="gold">挿絵:丸山末美</TD></TR> <TR> <TD align="center" bgcolor="gold">出展:『相生市史』第四巻</TD></TR> </TABLE> </CENTER> </BODY> </HTML> |
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