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長崎県

     
 山鹿素行の遺品があります。
積徳堂跡
 山鹿素行は平戸藩主の松浦鎮信から庇護を
受け、江戸浅草に「積徳堂」という家塾を開いて
いました。
 1744(延享元)年、山鹿素行の孫高道は平
戸に招かれ、積徳堂を移して松浦侯に仕えま
したた。
 吉田松陰は平戸に逗留して、山鹿高道の子
孫である山鹿宗家の教えを受けています。その
ときの松陰の起請文や誓詞血判が残されてい
ます。
 山鹿宗家の末裔が元平戸市長光世氏で、今
も住居として利用されています。
 寺坂吉右衛門の墓は、東京、五島、出水、
八女、益田、伊豆、仙台で確認されるそうで
す。
 1701(元禄14)年、佐賀の鍋島鍋島藩の家
来である深堀武士が幕府領の長崎で、町年
寄邸に仇を討つために、討ち入りし、それは
成功しました。
 しかし、参加した武士の12人が切腹、残る
9人は五島に流罪となりました。これを長崎
喧嘩騒動といいます。
 これを教訓に赤穂浪士は吉良邸に討ち入り
ました。寺坂吉右衛門は、そのお礼に長崎に
来ましたが、五島へ流罪になっていると聞き、
吉右衛門は五島へ渡ったといいます。
 そして僧侶となっている弟が住んでいる「福
見」で晩年を過ごしたというのです。
 江口 洋は父親の茶碗屋を手伝いな
がらペルシャ三彩の大胆な色彩との融
合を考えました。
 そして、長崎の幻の「長与三彩」に着
目し、復興に成功し、「長崎三彩」と命名
しました。
 信奉する歌舞伎「忠臣蔵」の天野屋利
平から茶碗屋「天野屋」 の看板を掲げ、
窯業の発展を図りました。
山鹿氏宅 寺坂吉右衛門の墓 三彩の里
平戸市 南松浦郡新上五島町福見 大村市原町
     

 平戸藩は山鹿流兵学を藩学とし平戸城縄張
りも山鹿流兵学に従ったものでした。
 21歳の吉田松陰は山鹿高紹に入門したとい
います。
 起請文一通と持参した萩焼筒茶碗を展示し
ています。
 この島には忠臣蔵の四十七士の中で唯
一生き延びた寺坂吉右衛門がいました。
 吉良邸の隣に住んでいたのが平戸藩主松浦
鎮信でした。
 鎮信の俳諧の師匠が宝井其角でした。
 宝井其角は両国橋で会った貧しい身なりの
大高源五に松浦侯から拝領した羽織を着せて
やったという話があります。
 本懐を遂げた源吾は「山をぬく 力も折れて
松の雪」という辞世の句を松浦侯に差し出しま
した。松浦侯は涙ながらに褒め称えました。
 平戸城は、この松浦鎮信と山鹿流兵学によっ
て縄張りされたといます。
平戸観光資料館 葉隠忠臣蔵 平戸城
平戸市大久保町2496 五島市福江島玉之浦町 平戸市岩ノ上町亀岡公園
テキストのみは、写真を入手しておりません。ご協力をお願いします。
全国どこへども行く予定です。
その他、忠臣蔵関係の情報があれば教えてください。
連絡はまでお願いします。

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